関学大生マック“出禁” 店から苦情「長居されて迷惑」(スポニチ)


客はお金を払う対価としてサービスを提供される。
当然、それが金額相当のものでなければ怒るのも当然だが、分相応のサービスを要求するのも問題だと思う。
「俺は客だ。お客様は神様だ。俺の要求を拒否する奴は悪だ」というのは、まるでモンスターなんちゃらのようで嫌悪感を覚える。
よく見かける光景ではあるけれど、当たり前に長時間席を占拠し続けて、店に実質的被害を与えている感覚もないとすればひどいものだ。

ただ、今回の「マクド出禁騒動」だが、確かに学生のマナーの悪さも問題だと感じたが、大学と店側の対応の悪さも気になった。

大学は店からの苦情を受けて、該当店舗に行かないようにと「出禁」の呼びかけをしたらしいが、そんなことでは短絡的すぎるのではないか。
せめて店を現地視察して、店長と実際に会って話をした上でどうしたらよいかを考えるべきだったと思う。
出禁にしたのでは、大学の抱える学生の質の悪さをアピールすることになるし、大学自体の評判を落としてしまうので自分たちのためにもならない。
何より、教育者としての「切り捨て」的な姿勢がいかがなものか。
痛いところは切り捨てればいいというのは、今の社会の良くない傾向だろう。
いずれにせよ「出禁」にすれば解決だと思ったとすれば、教育者としての質が問われる。

店側もそうだ。
マナーが悪いから大学に何とかしてくれとの苦情を伝えたらしいが、自分では何もしなかったのだろうか。
自浄努力として、マナー違反を見つけたら注意するということを徹底していれば、店の経営を困難にするほどの状態にはならなかったと思う。
学生だって、普通の感覚を持っているのなら、注意されれば申し訳なかったと感じるだろう。
「みんなやっているから」の論理を黙認したとすれば、店側にも問題はあると思う。

一番の問題は、簡単に済ませようとして、誰もが責任を持たず、何かを変えようとする行動を起こさないことだ。真剣に物事に向き合う「大人」な姿勢を見せなければ、今の問題は解決しない。

自分が子供の頃の大人は毅然として格好良くて怖かった。
だからこそ正しく生きようと思った。

大人が怖がっていては子供はどうすればいいのだろう。


04月17日付 日経新聞の報道「ニューデリーに五輪聖火が到着」へのコメント:

北京オリンピックに向けての聖火リレーがよく分からない。聖火が抗議の的になることもしっくりこない。聖火そのものに抗議することは、中国への抗議というよりはオリンピックそのものに対する抗議になってしまわないのか。なんだか的外れなような気がする。だいたいなんで聖火は世界各国を回るのだろう。平和の象徴としてリレーされるのなら目的を達していないし、聖火が来ることが名誉なはずだったのなら迷惑なものへと変わっている気がする。

確かに人命と人権が守られないような国でオリンピックが開かれることは疑問だ。現在の状況が改善されないまま強行開催しても、それはオリンピックの歴史の汚点になるだけではないかという危惧はある。ただ、そうであっても抗議をするなら紳士的にするべきだ。暴力に訴えた抗議をしてしまうと相手と同じ土俵に立つことになる。それでは相手に利するだけで、抗議の目的を達したとは言い難くなってしまう。

北京オリンピックは現在の状況で既に失敗している。それでもオリンピックに参加する選手達のことを思うと本大会だけは何の雑音もなく終わってほしい。冷戦時代に西側だけ、東側だけで行われたような本来の目的から外れたオリンピックにはなってほしくはない。純粋に競技で競おうと切磋琢磨してきた選手達には何の罪もないはずだし、競技がフェアに終わるならば北京オリンピックも最低限の役割を果たしたと言えるだろう。僕も純粋にスポーツを楽しみたい一人だ。それだけに最近のニュースは残念だ。
03月31日付 朝日新聞の報道「次長課長の河本さん、放送中にけが 骨折で全治1カ月」へのコメント:

 見てました。TBSオールスター感謝祭。なんか今までメイン的な感じだったマラソンを押しのけて、トリ的な位置を占めていたヌルヌル相撲だったわけですが、そもそもあれのどこがそんなに面白いのかがいまいち分からなかったのは僕だけなのでしょうか。そんな中でも河本さんは盛り上げようと必死に動き回って頑張っていたとは思うんですが、それが骨折とは。確か一回取り直し(相撲の)してたはずだけど、一戦目ですでに折れてたんですかね。そう考えると二戦目のあのシャープな動きをしていたときにはすでに満身創痍で、そんな状態の中、小川直也に勝っていたんでしょうか。芸人としてかなり腕があるなと感心しました。それにしてもあの企画は今回の骨折をもって打ち止めになるんでしょう。なんとなく司会者の紳助さんとかすごい好きそうな企画だったので残念でしょうね。まあ、どうでもいいんですが。
03月22日付 日経新聞の報道「サクラ咲いた、東京など一番乗り」へのコメント:

 春分の日も過ぎ、花見の季節が来た。本格的に春が到来したといった感じだ。日も長くなり、だんだんと暖かくなっていくこの季節は、花粉症のことを除けば、期待と一抹の不安に胸を膨らませる時季だろう。

 今日は彼岸ということもあって、家族総出でお墓参りに行き、帰り際に近くの梅林公園に行ってきた。桜にはまだ早かったらしく、蕾すら窺えなかったが、梅は5分から満開といった具合で、それなりに楽しめた。奈良時代あたりでは、花見の対象が梅だった時代もあったそうだが、やはり花見の華やかさの点で言えば、梅は桜には及ばない気がする。梅はもののあわれ的な感じで、桜はをかし的な感じなのだろう。

 桜は南から順々に咲いていくものだと思っていたが、意外とそうではないというのを最近になって知った。そもそも東京での開花が日本で最初というのが、なんだか東京びいきのようだ。桜前線という言葉もあるのだから、しっかりと順序を守って咲いてほしいという気がする。

 花を楽しむというのは、この季節特有のものだと思う。どこもかもが都会化し、五感で捉えられる季節感がなくなってしまった中で、花見というのはその例外として存在しているように思う。そのような有り難い感覚を楽しむ感性は大切にしたいし、今年も機会があれば何回でも花見を楽しみたいと思う。
03月13日付 日経新聞の報道「マクドナルドが「メガマック」定番化、朝・夜用「メガ」も発売」へのコメント:

 「定番化」っていうことはあれですよね。「常に販売できる状態にしておく」ということですよね。確かに物珍しさで前にメガマック売っていた時は思わず注文してしまったのですが、定番化ってどうなんでしょうね。だいたい、メガの前の関門としてビッグがあったんじゃなかったですっけ。ビッグマックってそれほど売り上げあがってないような気がするんですが、それなのにあえてメガを常駐させておくっていうのは、どういう戦略なんでしょうか。メガのバブルに踊っているように思うんですが。
 しかも朝用メガって。朝っぱらからそんな巨大容量のカロリー食を好んで食べる方がいるんでしょうか。「ネタになるから」という理由以外で普通に食べるとしたら、日本人の食生活もついにここまで来たかという感じがしてなんか不気味です。
 まあ、販売側から言わせて見れば、原材料が同じであるのだから、作る手間はかかるにしても利益率としてはいい数字になるといったところなんでしょうか。食べる側にしても、メガ一個を数人で分け合うという不可思議な食べ方をすれば、十分楽しめるということなんでしょうか。ただあの大きさなので、自分のトライ時には非常に食べづらかった思い出があるのですが、どうなんでしょう。みんなはうまく食べれたのかな。それさえクリアされれば、またチャレンジする心意気はあるのですが、表では食べれないですね、どちらにしろ。持ち帰って家で格闘するくらいしか怖くてできません。もしくはメガマック頼むんだったら、100円で売ってるハンバーガーを3つ頼むとか。いずれにせよ、これがお得意の一時的な施策で終わらないことを願っています。
02月19日付 ZAKZAKの報道「「東京タワー」が5冠? 日本アカデミーの仕組み」へのコメント:

 日本テレビで日本アカデミー賞の授賞式の模様を放送していたけれど、今年最も最優秀を獲得した『東京タワー』は日本テレビが噛んでいたようで。そもそもアカデミー賞は、審査権を持った会員というのが大手映画会社に集中している都合上、大手映画会社制作の映画が選ばれることが多いらしい。よっぽど無視できない作品でない限り、ミニシアター系などの映画が受賞することは難しいと何かに書いてあった。もっとも去年のフラガールはそれを乗り越えての受賞だったが。

 話は変わるが、アカデミー賞の授賞式をチェックしている割に、最近映画が苦手だ。今回、優秀作品賞を受賞した作品も『それでも僕は〜〜』しか観ていない。一本でも観ているだけまだましだったというところだ。まずもって動きのない作品はまず眠くなるし、アクションバリバリだとすぐ飽きる。我が家の映画DVD調達は母と弟が担当しているのだが、どうも借りてこられたものに興味が湧くことが少ない。特にやることがなくとも、2時間そこそこの拘束を拒否する本能が働いてしまうらしい。

 だから観る映画はかなりの鉄板映画に限られてしまう。いわゆる前評判が確かで、まずはずれがないといった映画のみを観る。だからあまり観ないながらも、セレクションに勝ち残った映画というのはだいたい観て良かったと思う。でも、こんな映画の見方をしても、「映画鑑賞が趣味」とはとても言えないし、映画好きにもならないだろう。無駄があるからこそ有益なものが映えるのだから、もう少し無駄とも思える時間を楽しむ術を身に付けたいとは思う。そういう楽しみ方の方が、本物に出会ったときの感動があるというものだ。
02月06日付 日刊スポーツの報道「民主2強ついに天王山で激突/米大統領選」へのコメント:

 米大統領選について最近よく目にする。特に報道の中心となっているのは民主党。なんとなく共和党の方はマケイン氏に決まったかのような雰囲気なので、女性と黒人のどちらが先に大統領になるのかというのが興味の中心になっている感じ。まぁ、どちらが民主党の大統領候補になろうとも、共和党候補との決戦がまだ残っているわけだが、このように一政党の予備選が日本で大々的に注目された記憶はない。

 報道の中で気になることを耳にした。今後のアメリカにとってアジアにおける最重要国は中国だということを各候補が言っているとか何とかを。確かに国土においても、人口においても、資源においても、市場においても日本は負けている。でも日本はこの50年強の間ずっとアメリカの方を向いていた。そして自分達はアメリカの一番の恋人だと思っていたのではないか。それがさくっと振られたこのていたらく。しかも自分も新しい恋人探しをしようにも、そんな新しい候補のリストアップもしていなければ振り向いてももらえなさそうな状況に愕然。近隣のアジアに顔を向けず、アメリカ一辺倒の外交をしてきたのはやはり間違いだったのか。日本の不器用さが今になって露呈してしまった感がある。

 置いてけぼりは食らった日本はどうするのか。昔の恋人を想っているだけではやっていけないことは明らかな気はするが、それでもすがるのか。本来ならアメリカにうつつを抜かしている間に、アジアをまとめてそのリーダーとなることも可能だったと思う。可能だったはずの舵取りをしてこなかった船が、誤った進路を立て直すにはかなりの計算と努力が必要だと思うが、乗組員はそれに耐えられるのだろうか。先行きは照らされていない気がする。
02月05日付 朝日新聞の報道「石原都知事、「東京五輪」不支持発言に激怒」へのコメント:

 石原都知事は個人的にそれほど好きではないが、今回の一軒に関しては彼の怒りの理由はもっともだと思う。一競技のごたごたで、しかも明らかに自分達の側に非があるのにも関わらず、持ちうる強大な力を振りかざして脅迫まがいのことをするのはいかがかと。どう考えてもフェアではないでないか。中東にせよ、餃子問題の中国にせよ、素直に謝るということを知らない気がする。思えば外国には謝罪という文化があるところが少ないような印象がある。とりあえず頭を下げるということをしない。ごねれば自分達の有利に働くと思っている。きっと日本人が同じ過ちを犯したら、下手に出て頭を下げ、相手の言いなりになるんだろうなぁ。なんかそういう正直な行為が誇らしく感じられない自分もどうかと思うが、間違ったことをしたら謝るというのは幼稚園児でも知っていることだ。まぁ、日本ではの話だが。
01月23日付 日経新聞の報道「東京都心で2年ぶり積雪、横浜で初雪・各地でこの冬一番の寒さ」へのコメント:

 今日、関東地方でも雪が降った。去年は確かほとんど降らなかったはずだから、これは久しぶりの雪と言って差し支えないと思う。平野部で降った雪はほとんど積もらないか、積もってもすぐに解けてしまうかといった程度だったからそんなに大騒ぎすることではないかもしれない。しかし、関東に住んでいる人間にとっては雪はやはり珍しい現象であり、程よく降ってくれると、そこはかとなく楽しくなってくる。

 こと子供にとっては、雪かきや通勤とかいった憂鬱な作業とは比較的無縁なため、純粋に雪を楽しむことができる。僕の記憶で言えば、雪の積もった日などは、先生が授業をつぶして雪遊びに充ててくれて、みんなで思う存分雪合戦やら、雪だるま作りやらに興じることができた思い出がある。それは楽しいものだった。

 ただ、雪を楽しめるのはやはり子供とスキー客だけの特権なのではなかろうかと思う。仙台で暮らしていた時などは、もういい年になっていたのだが、雪が降るのが憂鬱で仕方がなかった。通学に原付バイクを使っていたので、雪が降ると顔にピシャピシャと当たるのが痛くて仕方なかったし、時には路面の雪に足を取られて豪快にすっ転んだりしたこともあった。それに配慮してかどうか、雪があまりに深いと先生の方でも休講にしてくれることがあったが、こちらとしては現地にたどり着かない限りその情報を手にすることができないわけで、休講ということを聞いても嬉しいどころか恨めしいと思ったことも一度や二度ではなかったと思う。

 地域によって同じ現象でも人々の心を捉えたり、離したりするものなのだと今になって思う。北海道・東北・北陸の人などは、雪を常に恨めしく思うものなのだろう。それに比べて、関東の人の気楽さはいいものだ。両方の感覚を味わった自分としては、やはり何事もほどほどがいいと言うしかないと思う。
 
01月19日付 朝日新聞の報道「54万人が臨む 大学入試センター試験、始まる」へのコメント:

 今年もこの季節が来た。受験シーズン。今となっては関係ない僕のような人にとってはもう懐かしい昔話になってしまうものだが、ファミレスやファストフード店などでせっせと作業に勤しんでいる人を見ると、なんだか懐かしくなってしまう。「そういう時代もあったなぁ」と。そしてわずかながら、「頑張れよ」と密かに思う。

 僕の場合、二回センター試験を受験したことになるのだが、今思えばもっと真剣に勉強していればよかったと思わないこともない。いや、当時は真剣だったのかもしれない。今となってはその真剣さが過去の記憶となってしまったことで、あやふやさをもってしか感じ取れないのでそう思うだけだろう。実際、受験期にはストレスからか血尿まで出たくらいだから、やはりそのプレッシャーたるや自覚はなくとも相当のものだったと思う。当時の思い出としては、息抜きだと理由をつけてゲームセンターの格闘ゲームで達人レベルに上手くなった楽しい記憶が大半を占めているが。

 話は戻ってセンター入試。センターの思い出といえば、一回目の受験の時になぜか我が校は、あの開成高校に行って、開成高校の方々と机を並べて受験した。はっきいいって嫌がらせとしか思えなかった。そもそも戦闘力が違いすぎる。初めてナッパと遭遇したヤムチャみたいなものだ。試験の合間の会話で「98点だよ〜、やべぇ」という言葉を聞いたときなど、じゃあ自分の状況はどう表現すればいいのかと問いたくなるくらいだった。こういうどうしようもない状況に陥ると、人間笑うしかないなと思ったものだ。

 でも今になって思えば、「受験」という制度には多分の救済措置が含まれている気がする。どんな人間でも勉強は裏切らない。努力をすれば必ず報われるという一面を持っているからだ。努力が実を結ばないことの多さを考えれば、大概の人がすれば報われる努力に心血を注げる「受験」という制度は競争の平等さを保っていると思う。社会に通用する学歴という武器を手にできる勉強に励むことは、多少の向き不向きに耐えなくてはならないとはいっても無駄にはならない。たとえ、学歴に結びつかなくても、何かしらかの役には立っているものだ。

 そんな受験シーズンの到来を告げるセンター試験。当人にとってはごく真面目な切羽詰った状況を、おちゃらけて笑い話にできるのも、同じような状況のもとで多少なりとも苦しんだからこそなのかもしれない。真剣に勝負に向かう人たちにはぜひとも幸運がめぐってほしいと思う。
12月24日付 日刊スポーツの報道「M1第7代王者にサンドウィッチマン」へのコメント:

 年の暮れを感じさせるものといえば、クリスマスに彩られた街並みが第一に挙げられるだろうが、ここ数年の僕にとってはM1を観ることが年末への一つの区切りになっている気がする。紅白が権威を失いつつある昨今においては、M1こそがそれに代わるイベントとして僕の中では定着しつつある。
「ああ、終わったなぁ。今年も終わりかぁ。」
といった感じ。それなりに笑わせてもらえるし、新しいムーブメントをつくることになるヒーロー(?)の誕生を臨場感をもって感じることができる。

 というわけで、ことしのM1。優勝者はサンドウィッチマンということで。敗者復活からの優勝というのは初めてというから、その逆境に打ち勝ったのは凄いと思う。一回負けてるわけだからモチベーションの維持はもちろんのこと、ネタの準備だって十分にできないのが、敗者復活からの勝ち上がりに課された宿命みたいなものだろう。それを乗り越えたという意味で凄い。ただ、今回やったネタのどちらかだったか両方だったかは忘れたが、「エンタの神様」で前に見たことがあった気がする。

 今年のM1を評すると、優勝したコンビがどうとかではなくマンネリ化していた気がする。その理由はなんとなくだがはっきりしている。まず、漫才というより、コントに走るコンビが多かったこと。トークの力よりも設定や雰囲気で笑わせようとする傾向が強かった気がする。「M」1なのだから正統派漫才で笑わしてほしいというのが大会の趣旨なのだと思うのだが、なんとなくそれができているコンビが少なかった気がする。そしてこれは前述と反するのだが、変わり種がいなかったこと。昨年の変ホ長調や一昨年の南海キャンディーズといった感じの変てこなコンビが今年は少なかった。まぁ、変てこなコンビはよほどはまらない限り点数も低いのが常なのだが。個性の爆発が少なかったというのが多少の飽きを感じさせた一因ではないかと思う。その分、例年より見劣りした感じが個人的にはした。

 とはいっても、笑いを真剣に追求している姿を生放送で見られるというのは、面白いものだ思った。ライブなどに行かない限りは、そのような臨場感は味わえないだろう。そういう意味で、この番組は続いて欲しいし、僕は来年もM1を見ると思う。
12月13日付 日刊スポーツの報道「世相を象徴「今年の漢字」は「偽」」へのコメント:

 今年ってあまり良い出来事に恵まれなかった一年だったのだなぁと改めて思わされたニュース。流行語もそうなのですが、確かにオリンピックもW杯もなかった年なので、スポーツの面でのビッグイベントとそれに伴う名言・ヒーローの誕生ということにはならなかったけれど、それにしても「偽」とは。暗い年だからこそ、あえてそこに光を見出すような一字を投票して欲しかったかなというのが実感です。

 広辞苑によると

偽 ?にせ。いつわり。いつわること。「偽造・虚偽」
  ?〔論〕ア、対象と一致しない認識。 イ、誤った推理
 
となっています。つまりは今年は贋物や嘘がはびこった一年であったと日本人は感じているわけで、どうにもやるせないですね。食品偽装に始まり年金や政治とカネの問題など、色々と聞きたくもないことが多く露呈した一年だったということになるのでしょうか。

 しかし、この負の顕在化はある意味いつかは通らなくてはならない道だったのではないかという気もします。それだったら早い方が良い訳で、膿を出し切ってから新しい一歩を踏み出していきたいとも思うわけです。この暗いイメージが付きまとった一年は、明るい未来への踏み台だったと思えれば、それはそれで良かったじゃないかと少しは明るい気持ちになれるのではないでしょうか。来年こそはすべての人が笑顔でいられるようにと願うのは、意味のあることだと信じて、新たな年を迎えたいものです。
12月02日付 日刊スポーツの報道「ロッテがコージーコーナー買収検討」へのコメント:

 コージーコーナーは最寄駅の構内にも店を構えている。時たま父やら兄やらが気が向いた時に買ってきてくれるので、我が家では重宝しているお店だといっていいかもしれない。そのケーキのボリュームからなんとなく高級感があるお店なんだと勝手に思っているが、ロッテが買収に成功したらなんとなくありがたみが半減するような気がする。

 まあ、品質が落ちないことと、店名が「ロッテほにゃらら」に変わらないことさえ約束してくれれば、買収うんぬんはどうでもいい。企業間の相互利益をを図ればいいんじゃないか。そういえば、コージーコーナーは枕詞か何かわからないが、「銀座」と銘打っている。ロッテが買収しても「銀座」なのだろうか。あれは創業の地が銀座ということなのだろうが、あの一言で高級感が5割増になっているのは間違いないだろう。ということは、「ロッテ」と「銀座」で相殺か。

 コージーコーナーに関しては、買ってきてもらうものという意味で完全に受け身のお店なので、現状維持を保ってくれればいいという感想しかない。ただ、今後ももらえるものはありがたくいただきます。よろしく。
11月27日付 朝日新聞の報道「マクドナルド、賞味期限切れ商品を販売 FC社員認める」へのコメント:

 やっぱりあったんですね、マックにも。外食産業最大手の企業ですら、管理を行き届かせることが出来ないとなるならば、その他の企業は言わずもがなと思ってしまいます。きっと真面目に商売している企業もあるだろうに、皆が皆偽装しているという疑いの目で見られるのが、こちらとしてもやりきれないです。外食は楽しんでするべきなのに、「この店のこれって怪しくない?」というのがご挨拶になってしまいます。なんか寂しいですね。

 それはそうと、マクドナルドってフランチャイズ(FC)展開しているんですね。まあ、当たり前といえば当たり前ですけど。直営とFCって何がどう違うんですかね。FCになると経営主体が違うっていうのはなんとなくイメージできるんですが、母企業の利益率でいったらどっちがいいとか、費用的にはどちらが賄うとか、細かいところになるとさっぱりです。一つ一つ契約で決まるんでしょうがね。

 とにかくこれ以上消費者への裏切り行為が起きないように、各企業、各店舗での管理徹底を推し進めて欲しいと思います。これだけ偽装が叫ばれている中、上の人間が「知らなかった」では、もう通用しないんじゃないでしょうか。どんなに自信のあるシステムを敷いているとしても、自らに疑いをもって調査していくことが必要なんだと思います。
11月12日付 朝日新聞の報道「日経平均株価、年初来安値を更新 サブプライム問題懸念」へのコメント:

 経済ってやつの本質が分からない。なんとなくなら分かるのだが、「なぜ?」を積み重ねていくとすぐに分からなくなる。株の原理は分からないながらも単純化すれば理解できるのだが、あの為替という奴がよく分からない。なんでお金のレートが日々変わるのであろうか。誰がそんなことを決めているのか。いいところで一定させておけば問題ないのではないか。そんな完全な素人さんに成り下がってしまう。

 今回の件もそうだ。サブプライム問題?なんともアメリカで住宅ローンの貸付が回収できないから、経済に大打撃が加わっているらしい(合ってるのかは分からない)。この件に関しては完全に蚊帳の外だ。貿易関係はあるとはいえ、なぜアメリカの話が日本にまで影響するのか。まったく分からない。こんなことなら大学時代にもっと経済学を学んでおけば良かったと思っても後の祭りだ。

 まあ、それでも特に問題ないから困ってしまう。経済の問題なんてほとんど自分には関係ないからどうでもいいというのが本音だ。でも分からないのは癪に触る。せめてもの抵抗として新聞くらいは眺めるのだが、あくまで眺めるだけに終わってしまうというのが問題だ。こんな話しを衆目に晒すこと自体がなにか問題ある気がしないでもないが。
11月06日付 朝日新聞の報道「小沢氏、辞意撤回へ 「ぜひ、もう一度がんばりたい」」へのコメント:

 政治のことはよく分からない。それに小沢さんがどんな人かも知ってはいない。だから、この件について語るとしたら、「決意」というキーワードに持っていくしかない気がする。傍目に見ても小沢さんの決意は三つの箇所で誤ったと思う。

 小沢さんはもともと民主党での政権奪取を目指していたように聞いた記憶がある。だとすると、自民党との大連立を打診された時点で即刻拒否するのが妥当だった気がする。これが決意の誤りその?。

 そして、民主党に持ち帰った後、大連立に賛同を得られなかったことで辞意を表明したこと。これがよく分からない。完全に自民党(福田首相)に揺さぶられたのだろう。よく考えれば、大連立が党で賛同を得られるはずのないことは分かりそうなものだ。しかも辞意を表明するあたり、もうこれ以上民主党ではやっていけないとでも思ったのか。これが決意の誤り?

 締めは辞意撤回。辞めると言ったのに続ける。個人的な感想だが、きっと今後の党運営における求心力は間違いなく低下してしまうと思う。撤回するくらいなら最初から辞めるなんて言わなければいいのにと思う。これが決意の誤り?

 分からないことだらけだが、小沢さんの決意の誤りは日本人の美学に外れているのだろう。テレビを見ていると、辞めるべきだったという声が留任すべきという声を上回っていた。しかも、得したのは自民党だけだと。民主党の切り崩しに成功したからということだった。

 しかし、一連の話の流れを聞いていればこういうことになると思うのだが、策を弄したのは福田首相の方で、それにみすみすはまったのが小沢さんなのではないか。正々堂々とした政策論争ではどうにもならないから、民主党に協力を求めたが自民党ではないのか。なんとなく民主党の失策のように聞こえてしょうが無いが、実質、その弱さを露呈したのは自民党ということにはならないのか。やはり政治は分からない。
10月31日付 日経新聞の報道「ミスタードーナツ、賞味期限切れのシロップ使用」へのコメント:

 大宮に遊びに行った時にたまに利用しているミスタードーナッツ。ドーナッツではなく、ドリンクのシロップの賞味期限切れみたいですね。報告のミスだったんでしょうか。偽装とは言えないだろうけれど、食の安全が叫ばれている昨今のことなので、もう少ししっかりと確認作業をして欲しかったと言うところです。

 赤福と言い、白い恋人といい、我が家で食べているものは結構な率で偽装やらなんやらが施されているようで、普段あまり賞味期限を気にしないとはいってもちょっとした憤りを感じてしまいます。赤と黄色のファストフード店やら地元の惣菜店やらもちょっと疑いたくなってしまいますが、きっとしっかりやってくれていると信じて買うしかないですし。誠実に商売を行っているお店が損をするのもバカらしい話なので、これを機会に真っ当な生産ラインを確保してほしいものです。
08月21日付 日経新聞の報道「朝青龍の帰国容認せず・北の湖理事長、国内療養を要請」へのコメント:

 実際に見たわけではないから、朝青龍がどの程度の状態なのかは分からない。しかし何回かの医師の診察の通り、精神疾患を負っているのならば、横綱としての責任の取り方うんぬんではなく、治療を最優先させるべきだと思う。心の安静が必要なのならば、建前とかにとらわれず、モンゴル帰国も容認したほうがいいのではないかと、個人的には思う。

 確かに朝青龍の症状を治療する技術は日本のほうがモンゴルより優れているかもしれない。しかし、臨まない環境での治療では、早い完治は望めないし、朝青龍自身が自発的に治療に向かうのは難しいだろう。マスコミが張ってる中、治療に向かうのはプライドが許さないかもしれないし、もっともそんな環境では治るものも治らないのではないか。

 相撲協会は、朝青龍を廃業に追い込みたいのだろうか?横綱としての品格に欠ける部分があるのは否めないし、今回の件も朝青龍に非があるのは間違いないが、朝青龍はいまとなっては、ただの病人だ。その傷ついた病人を本人の望む治療環境に置くことが一番の親心というものではないだろうか。今までも、問題行動はあったものの、一人横綱として角界を引っ張ってきた朝青龍の功績を認めるならば、再び土俵に上がることを期待して、最良の選択をしてもらえることを望みたい。

 
 ふとポータルサイトのトップニュースを見ていたら、「賭博漫画『カイジ』アニメ化」という文字列が目に飛び込んできた。

 あの「カイジ」をアニメ化か・・・。個人的には嬉しい限りだが、あんな男むさい漫画をアニメ化して数字をとれるのだろうか。だって暴力なしには語れない漫画だし、半強制的に飛び降りさせたり、ギャンブルに負けて指切断させられたりするんだよ。深夜枠といえどもちょっと濃いんじゃないかと心配してしまう。

 前に同原作者の漫画「アカギ」をアニメ化した時も見ていたが、あまりにもおどろおどろしいシーンは簡略化していたし。さすがにお子様が見ていない時間帯とはいえ、血を抜いてヒイヒイ言うのは描ききれなかった感がある。

 しかし、勇気ある日テレに一言申し上げるならば、今回は一切の規制なしに制作側に任せてみて欲しい。きっと抗議殺到だろうが、「カイジ」の愛読者としては、その泥臭いシーンなしには本当の「カイジ」ではないのだ。福本さんの作り出すあの説教臭い頭ごなしな会話も、ギャンブルの過程や末に課される懲罰もできるだけ原作に忠実に描いてみて欲しい。それがもっとも視聴者を(簡単に言えば「カイジ」の既読者を)惹きつけることに繋がるんじゃないか。

 しかし、あの時間帯の日テレのアニメ枠は冒険しすぎている気がする。「アカギ」に「デスノート」に「カイジ」・・・。確かに話題作ではあるが、漫画の世界観をアニメで着実に描くのは意外と難しいと感じさせられるラインナップ。対象とする視聴者層がはっきりしているだけ勝負しやすいという面もあるが、視聴者が視聴者だけに一歩間違えると大変な批判をうけることになりそうなラインナップ。よく乗り越えてきたと思うよ、ほんと。「カイジ」でぽしゃろうとどうなろうと、僕は見ます。ただしHDD録画してだけどね。
08月09日付 日刊スポーツの報道「HTB「水曜??」鳥取砂丘の砂を違法採取」へのコメント:

 今更というか、それだけ人気があるのだなと思わされた「水曜どうでしょう」の不祥事。我が家でも僕が仙台から持ち帰って、埼玉テレビ(現テレ玉)で放送していることが分かって以来、毎週楽しみにしている番組一つになった。

 違法とはなっているが、「どうでしょう」のスタッフ・キャスト陣ともにその認識はなかったのだとは思う。ネタ的に「おもしろいから」のノリでやったことだと思うし、取った砂もほとんどは視聴者プレゼントに充てたらしい。すでに7年経っているため、指摘されるとも思っていなかっただろう。地方局が地方局に番組放映権を売るという珍しく超人気番組だけに発覚した不祥事だとは思う。

 確かに、鳥取砂丘の砂を持ち帰るのは、甲子園の砂を持ち帰るのとは訳が違うらしい。来る観光客すべてが、砂を持ち帰ってしまっては、そこは補給の利かない砂丘の砂、いつかは枯れてしまうだろう。その意味では「どうでしょう」のはじめHTBの関係者は謙虚に謝ったのは当然だと思う。

 最近では一年に一本くらいの企画物として放送されるだけになってしまった「どうでしょう」だけに、その灯火が消えないことを祈るだけだ。我が家をあげて応援している(大泉)洋ちゃん、ミスター(鈴井さん)、Dの二人、これにめげないで良質なバラエティー型旅番組を創り続けて欲しい。

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