試験

2013年1月25日 日々の暮らし
明後日にとある試験が控えている。

FP技能士3級という資格試験だ。

ファイナンシャル・プランニング技能士を名乗るためには必要な試験らしいのだが、仕事に少しだけだけれど関係あるかなと感じ、上級資格への踏み台にできればと思ったのと、あとは国家資格だしFPってなんだかすごそうというミーハー気分で申し込んだ。

勉強は簿記の時と同じで全く机に向かわずゴロゴロ転がりながら参考書を読み、問題集を解いている。鉛筆すら握っていない。

すべてが二択か三択だし、実技もあるのだけれど、「実技」なんて名ばかりで実際には何かを作ったりだとか面接だとかはもとより、記述式もないからそんなに難しくない気がする。実際0から始めても1週間そこそこで受かるらしい。自分はある程度の予備知識があるので、きっと大丈夫だろう(と言い聞かせている)。

だからほんわかした勉強しかしていなくて、もしこれでファイナンシャルプランナーを名乗ってもインチキ臭いことしかできなさそうだ。きっと試験が終わったら一ヶ月で勉強したことなんて忘れてしまうんだろうな。少なくとも理解はしていない。受かるための勉強をしているだけといった感じだ。

とにかく明日も悲しいことに休みじゃないけれど、帰ってからちゃちゃっとやってしまって片付けたいなぁ。

ループ

2012年4月10日 日々の暮らし
人は永遠を希求する。

それは喜びや楽しみを永続的なものにしたいからかもしれないし、または、本能的な死に対する恐怖からのものかもしれない。プラスをさらにプラスにしたいからか、マイナスの幅を少しでも縮めたいからか、動機はどうであろうとも、今の瞬間がずっと続けばいいのにと思うことは誰しもあるとは思う。


僕も今日そんな思いを抱くときがあった。


朝、駅である人を待っていた。前に書いた一心不乱に走る少年だ。

僕は久しぶりにいつもの電車に乗って駅のベンチで休んでいるときに、ふと彼は来るだろうかと思いをはせた。

彼は学生であるから、新年度に改まったことで卒業してしまっているかもしれないし、通学時間帯が変わるかもしれない。

ただ、一言も交わしたことはないとはいえ、これからも彼の姿を確認することで、

「よし今日も頑張るか」

と思いを新たにできるといいなと思っていたし、少なくとも彼が僕の世界からいなくなってしまうことは悲しいことだった。それはきっとあり得ないことだろうけれど、できれば彼が変わらずにいつもそこに存在していてほしいとさえ思った。

しばらく駅のベンチで休んでいたが、それはすでに休憩のためではなく、彼を確認して安心感を得たい、さらに言えば、小さな永遠を手に入れたいという欲求のための時間だった。

彼の来るはずの電車がやってきて、人波が流れてきて、期待と不安が入り混じった感情が僕の中に流れた。

果たして彼はやってきた。

いつものように一心不乱に、わき目も振らず、必死に走っていた。

僕はそれを確認すると満足して、彼の後を追うようにして仕事に向かった。

このわずかなループが永遠に続けばいいのに。
自分が馬鹿じゃないと再確認できたようでありつつも、それはそれでやはり大馬鹿なのではないかと思い、とにかく何がいけなかったのかと後悔と反省の時を過ごしている。

つまりは、風邪をひいた。

最初は37℃そこそこしかなかったので普通に仕事していたら、やはり怪しいと思われたのか、
「病院に行って来い」
と仰せつかったため、中抜けさせてもらって仕事場近くの病院で受診&検査してもらった。結果、例のアレではないと言われ、薬を一通りもらって再び仕事をしようと普通に昼ご飯食べて休憩していたら
「今日はもう帰りなさい」
と言われ、素直に帰宅した。
「まぁ、アレではないから大丈夫」
と思っていたが、夜眠っていて妙に暑かったので検温したら、

38.6℃

といかにも判断つかない微妙な数値をたたき出した。
それでも朝起きたら37℃台前半だったので、とりあえず咳が出るから仕事は休んだけれど、かかりつけも休みだし、その日(昨日)は一日自堕落な時間を過ごした。

そして今日再びかかりつけの病院に診察を受けに行ったら、なぜかまた例の鼻にグリグリする検査を受けさせられて、
「そんなにグリグリしても出ないものは出ない」
と高をくくっていた。

10分ほどしてお医者さんが嬉しそうに入ってくるから、一瞬ほっとしたのもつかの間、
「出てるねー。ほら、Bのところに線が入っているでしょ。インフルエンザだねー。」
と明るく楽しく言われたため、その口調と現実のギャップに笑えばいいのか泣けばいいのか分からなかったが、とりあえず噂のタミフルをありがたく頂戴して帰宅した。

でも帰ってきたら、38.6℃しかないし。

何よりショックなのは、週末の横浜への小旅行が取りやめになったこと。猫と4千年は父母にプレゼントしたからいいけれど、心の喪失感が大きい。かなり楽しみだったのに…。

とにかく今は体内に残るインチキエンザ菌に怒りの業火を浴びせて抹消し、早く普通の生活に戻りたい。

でも、久しぶりに丸一日休んでみると、それはそれで悪くないけれど。
関東では昨日雪が降って、今朝は言うほどでもないけど、道を雪が軽く覆っていた。仙台で学生生活を過ごした自分にしてみれば、なんてことない雪だったので、今朝もいつも通りの時間に家を出てバス停に向かった。

家を出る前に先に出勤した父から、
「バスに乗れなかったから歩いていく。お前も歩け。」
と電話があったが、僕は高をくくってバスを待つことにした。

といっても、いつものバス停では父の二の舞になることは目に見えていたので、策を講じて二つ前のバス停まで歩いて並ぶことにした。

そのバス停にもすでに10人近い人が並んでおり、でもまぁここなら乗れるだろうと楽観的に構えていたが、予定時刻を5分過ぎても、10分過ぎても、15分過ぎてもバスは来ない。

そうして待っているうちにバス停で待つ人の人数は、バス一台を満車にするくらいの人数になり、それでも楽観的な僕は、自分までは乗れるはずと盲信していた。

20分ほどたった時に、ようやくバスがやってきて、
「よかった。なんとか仕事に間に合う。」
とほっとした。

バスが停留所で止まり、ドアが開くかと思った時に


「満車です。通過します。」


とファンキーな一言を残して去って行った。

その瞬間、一瞬の絶望感と多少の焦燥感、そして冒険の始まりを思うワクワク感が僕を呑み込んだ。

そして、駅まで走った。歩幅を小さくして、体重を上からかけて滑らないようにしながら固まった雪の上を小走りした。

周りの目など気にしてられず、ただ、目の前の
「遅刻をしない」
という大目標達成のためにストイックな行進を続けた。

いつもは30分前に仕事場に着くのだが、今日はバス停で20分ロスした上に、駅までバスなら10分で行く道を自分の足で駆けなくてはならない。ほぼ絶望的と思いながらも駆け抜けて駅まで着くと、よほど普段の行いがいいのか、電車がぴったんこに到着してくれていていた。

結果、仕事場には15分前に着くというどう計算しても合わない天才的な時間配分を組み立てて、誰にというわけではないけれど、全面的に勝利した。

ビバ!自分。


というか、2つ前のバス停まで歩くくらいなら、最初から駅に向かえ、という話だ。しかも最初っから父の助言に従っておけばこんな小冒険はなかったのだから、完全なおバカさんだ。先人はあらまほしきことかな。


ふと目にした言葉「ゲシュタルト崩壊」。
心理学的な用語らしいけれど、その音の響きが気になってWikiで調べてみた。

驚いた。
自分の味わっているこの感覚に名前があることに。
まさに最近の自分の生活はゲシュタルト崩壊の連続。
というかゲシュタルト崩壊の世界で生きているようなもの。
うまく回転しない頭が物事の認識を妨げているような、もやのかかった状態。

とはいえ、それほど不便しているわけではなく、ただ多少不安だったこの感覚(若年性痴ほう症の前兆かと思っていた)がすべては解明されていなくとも、定義づけられているということに安心した。

あまりに頭が働かないから、間違えを起こさないようにと、確認恐怖症っぽくなっていたが、今は耐えるとしよう。

とりあえずは、睡眠時間の確保を優先…zzz。

ついに超えた。

親父を超えた。

親父より肥えた。
いつも下車する駅のコンコースのベンチで、僕はほぼ必ず休息を取る。
満員電車に揺られた疲労感を癒し、一日の活力を養うためなのだが、その休息には一つの楽しみがある。

僕がベンチに座ってから2、3分くらいすると新たな人波が押し寄せてくる。

その人波を縫って一人の男子高校生が駆けてくるのだ。しかも全力で。

若干小太りで背もそれほど高くなく、眼鏡をかけたその容貌からは、周りの目を気にする様子は全くうかがえず、学生服(学ラン?)を身に着けていることでバンカラな雰囲気を醸し出している。僕の偏見だが、鬼気迫る真剣さがかえってコミカルな印象を与えている。そんな高校生だ。

きっと乗り換えの接続がぎりぎりのタイミングなのだろうけれど、毎日のようにその光景を目にしていると、完全に一方的な親近感が湧いてきたのだ。まずもって彼が僕に気付くことはなく、走る自分を温かく見守っている人間がいることなど知る由もないだろうけれど。

思えば僕の中高生時代も学生服で過ごしていたし、彼のようにほぼ毎日電車に乗り遅れまいと全力で駅に向かっていたものだった。一心不乱に。自分のことだけを考えて。周りになど目もくれずに。

そんなまっすぐ前を向いただけの生き方は、通学時だけには限らなかったと思う。

でもそんな中でもきっと多くの人が僕のことを気にかけてくれたに違いなく、それに気づけないほど僕は若かった。でもそれは今になったから分かることであって、当時は自分のことだけで精いっぱいだった。生きるということについて真剣に考えているつもりだったし、それでも自分の進むべき道が見いだせなくて、もがく日々だった。今でも出来た人間ではないけれど、そんな日々を過ごしたおかげか実感として生きることが軽く感じられるようになった。

今日も彼を眺めながら自分が守られていたことを思った。

そして彼の走る先にある、多くの障害を思い、彼がそれを乗り越えていく過程で、ベンチに座る僕のことに少しでも思いを及ばせてくれたら幸せだなとも思った。
金曜の夜の独特の解放感に包まれるかと思いきや、なんだかふらふらする。
別に精神的にどうこうというわけではないけれど、なんだかふらふらする。
今日は早く寝よう。

秘め事

2012年1月11日 日々の暮らし
職場に入社して3か月目の青年サイトウ君はとても礼儀正しく、挨拶の仕方などもとても清々しい人物だ。その若さから諸先輩方には色々とお世話になっているようだが。

その彼が一回りくらい年上で直接的に仕事を教えてもらっているのがスミダさん(男性)。スミダさんにはそれこそ頭が上がらないほどにお世話になっている。


ある日の朝、サイトウ君は、スミダさんが同僚のマエダさん(女性)と車で一緒にいるのを目撃してしまったらしい。

彼は後に述懐する。
「僕は見なかったことにしたんですよ。もう社会人ですし。男女の恋路は静かに見守ろうかなと。大人のマナーとしてこのことは胸にしまっていたんです。」と。

そうと決めたものの、もやもやは晴れず、そのはけ口としてか、彼はスミダさんをつついて
「スミダさんも女遊びでもしたらどうですか?」とか大胆なことを言ってはスミダさんを困らせていたらしい。「も」とは意外に冒険家な部分もあるサイトウ君。

そしてついこの間の新年会。
初々しいサイトウ君はここでもみなさんにお世話になり、
「何か心に引っかかっていることがあったら吐き出せ」
と半ば命令されたため、
思い切って胸の扉を開いて、

「僕、見てしまったんですよ」

とあの時に見た光景を口にした。
その瞬間、盛り上がっていた酒席の時間が一瞬止まった。

「やってしまった」

と思ったサイトウ君が顔を上げると、みんなの好奇の目がスミダさんに向かっているのに気づく。

「ごめんなさい。スミダさん。」

失ってしまうものの大きさを思って絶望感に打ちひしがれ、あまりの場の凍りつきように何も言えなくなってしまったサイトウ君。

するとみんなの視線を避けるようにして、
伏し目がちなスミダさん。

ばつが悪そうにぽつりと一言



「だって嫁だし」


・・・


(爆笑)


その後、ただ一人、サイトウ君だけがポカーンとしていた。



解説すると、スミダさんとマエダさんは紛うこと無き夫婦で、マエダさんは仕事上は旧姓を名乗っているだけだった。

しかし、朝礼や納会などでマエダさんをスミダさんと呼んでいたこともたびたびあり、気づくチャンスはいくらでもあったはずなのに、サイトウ君は3か月間もそのチャンスをスルーしていたことになる。しかも、スミダさんもマエダさんも結婚指輪してるし。夫のスミダさんもサイトウ君とあれだけ一緒に仕事をしていながら、あえて夫婦と明かさなかったとはね。

個人的にはサイトウ君が知りながらもスミダさんに不純な行為を勧めるようなブラックな青年でなくて良かったと思った。
今日、バスで家へ向かう道すがら、幸運にも座席に座ることが出来て、音楽を聴きながらまったりとしていたのだけれど、どうも聞きなれない言葉が座席の後方から聞こえてきた。音楽の入ってくるよりも確かな音量で聞こえてきたその会話はどうやら英語らしく、さらに耳を澄ませているとお父さんと小学校低学年くらいの少年の語り合いであることがわかった。敢えて後ろを振り返ることは、その人たちにとって失礼になるのではないかと危惧した僕は、ただ音楽と英会話の二重音声を楽しんでいたのだけれど、自分より早くその親子がバスを降りる雰囲気であったので、どんな二人なのだろうとちらりと覗う機会を楽しみにしていた。

その二人の姿を見たときに、ちょっとした驚きが自分の中に生まれた。自分の想像の範囲外だったためだし、これは僕の偏見だったのかもしれないが、二人は黒人だったのだ。人種がどうこういうわけではなく、ただ僕の中では「英語だから白人だろう」という単純な思い込みがあったのだが、眼前に突きつけられた事実は僕に多少のショックを与えた。なぜ、自分は「英語=白人」と思い込んでいたのか。自分も気付かないところで人種差別をしてしまっているのか、と。

結論から言えば、ただの刷り込みなのだろうけれど、なんだか自分が小さい人間に思えてしまって、哀しかった。「もっと大きな心で世界を見なくてはならないな」とその時に思った。
集団でスポーツをやる前の準備運動の話なのだけれど、キャプテン的な人が必ず

「丸くなってください」

と号令をかけるのが常だ。号令の意味は分かっているけれど、

「自分はそんなに尖っていたかな?」

と自己反省してしまう。スポーツの途中で熱くなり過ぎないように、敢えてこう言っているのかもしれないとか、深読みしすぎてしまうのだ。
昨日、あまりに体を動かしたくなって、市の運営するトレーニングルームのある施設に赴いた。初めて利用する人は講習を受けなくてはならないらしく、予め用意するように言われたもの(ウェア、屋内履き、水分補給できるもの、タオル)も持参しての参加だった。説明自体は前に同じような施設を利用したことがあったので何の疑問もなくスルーしたのだが、その前に行っていたトレーニングルームより我が市のそれは充実しているように思えた。

何がいいかというと
①器具の数と種類が多い
②トレーナーの人数が多い
③器具とその説明書き、区分けがしっかりされている
④基本的に自家発電
といったところだろうか。

そしてどれだけいても400円で過ごせるらしい。個人的には1時間くらいいれば十分な感じになるので、その半額でお願いしたいところだが、まぁ、分相応と言ったところなのだろうか。

とりあえず自転車漕いで、走って、筋トレしてで1ターン目が終わると大体1時間経つ。本当なら2ターン目も出来ればいいのだけれど、それはまだ体力的に自信がないので、次回以降の課題にしようと思う。それにしても身近にあんなにいい施設があったとは。見落としは意外に多い。
とある友人が左手小指を骨折して、手術のため入院し、昨日退院したとの報告を受けた。かなり精神的にも思うところがあったらしいが、退院後、気分転換のために寄った床屋で店主から天の言葉をもらったとこぼした。

「見えないものが一番怖いんだよな」

と。

まさにそのとおりだと思った。
僕は基本的に占いた信じない方だ。
だが、先日いとこ(といっても5歳児)がもってきていた子供向け雑誌の最終ページにに載っていた占いを見て、はっとさせられた。

『しし座

何か忘れ物をしたり、持ち物をなくしてしまったり、小さなアクシデントが起こりそうなので気をつけてね』

とさ。これが小さなアクシデントなら、大きなアクシデントに見舞われる人はいったいどんなになってしまうのだろう、とちょこっと思った。

ちなみに父はみずがめ座なのだがその欄には

『わがままな発言や態度に注意!だれかをいやな気持ちにさせてしまうよ・・・。まわりの空気をよく読んでね☆』

とあった。

あなどれぬ、子ども向けメディア。

アホ

2009年5月31日 日々の暮らし
ちょっと前に、ある仕事のリーダー的存在の人に叱られたことがある。原因は仕事上のミスなのだけれど、その作業の責任者はなぜか僕ということになっており、
「なんでこんなことしたんだ!」
と軽く怒鳴られた。

実はそのミスは僕がやったものではなく、たまたま作業を任せていた新人さんが犯してしまったもので、本来なら僕ではなく彼が叱られるべきだ、と僕は瞬時に思った。しかもミスを犯した彼も僕が叱られた現場に居合わせたのだ。

しかし、
「それは・・・」
の声を僕は飲み込んでしまった。リーダーの目が笑っていたからである。そこで僕は「すみませんでしたぁ」と謝り、一件落着した。もし謝ってしなかったらどうだったろうと謝りながら思った。

あえてする必要もないと思うが、僕の好意的な解釈によるとリーダーはすべてを分かっていて僕を叱ったのではないかと思う。ミスした新人の気持ち、僕の性格、そして彼自身の立場。すべてを分かって僕を叱ったのではないか。ちなみに後日談だが、ミスをした新人さんはその翌日にリーダーに
「自分がやったと思うんですよ」
と告白していた。リーダーはやはり、「もういい」というような表情をしていた。

多分、僕はアホなのだと思う。必ず、自分の感情を表す以前に相手の気持ちを考えてしまう。だから、某国の核実験やらなんやらもその背景にある某国トップの気持ちを考えてしまう。きっと苦しいのだ。どうにもならないのだ。誰かに助けてもらいたくてしょうが無いのだ、と。だから、せめて振り向いてもらえるように、同じ立場に立ちたいがために犯してしまった「過ち」なのだろうと。

世界は哀しみで満ちている。それを救えるのは何なのだろうか。僕は最近そればかりを考えている。
今日、いつもの買い物をしようと思ってコンビニに立ち寄り、おにぎりとパンを選んでレジに向かった。店員さんがバーコードを読み取り、
「240円になります」
と教えてくれた。僕は予め用意していた財布を開いた。
小銭入れには7円しか入っていなかった。そこで、札入れの方を確かめてみた。

ない、ないのだ。お金がない。
7円しかない。

一瞬の混乱と恥ずかしさはあったが、すぐさま
「お金がないので、なかったことにしてもらえますか?」
という、意味不明な謝罪をして店を去った。

店を出てから、僕は嬉しさをかみしめていた。確かな喜びを感じていた。ついにあの日々が終わったのだと思った。2年前のあの日に自ら招き寄せた悪魔が、今はこういう形で僕に微笑んでくれていることに感謝した。これは決して偶然ではなく、必然なのだと思いたかった。

僕の過ごした2年とちょっと(もしくはこれまでの人生)に意味があったのかどうかは分からない。あの時にもおぼろげに見えていたものはあった。だが、僕にはまだ何かが足りていなかった。今もすべてを分かっているつもりはないし、もしかしたらまた何かが僕を襲うかもしれない。でも、今はそうなる予感すら愛しく感じる。

きっと僕の新たな物語はこの7円から始まるのだ。神の存在など信じてはいないが、もし神がいるなら僕の身に起こった出来事は神のいたずらだろう。そう信じたいし、これからは僕の意志の時間なのだという確かな感触が今はある。
昨日、母を泣かせてしまった。

「あなたはもう駄目だと思っていたから」

と言っていた。

その後、僕は出かける用事があったのでシャワーを浴びた。
最高気温29度。真夏日とはいかないまでも立派な夏日。そんな炎天下の中、ひたすら汗を流していたら、今までほとんど落ちなかった体重が3kg激やせしました。もっともいままでもダイエットらしきこともしていなければ、大した運動らしきこともしていなかったのですが。ある意味奇跡です。

さむい

2008年5月10日 日々の暮らし
今日は気温が低くて寒かった。雨も降っていたが、とりあえずコンタクトを入れてしまったので、ついでだから髪を切りに行って、ツタヤにCDを見に行った。半額クーポンが来ていたが、それで借りられる旧作のアルバムには興味を引くものがなく、30分くらいいろいろ見てまわったものの、何も借りずに帰ってきた。

感性の劣化。いまいち新しいものにインスピレーションが働かない。しかも今までのように何かを手に入れることにアドレナリン分泌の助けがない。これは年齢から来るものなのか、季節的なものなのか、それとも精神的に落ち込んでいるのか。まあ、複合的な理由だとは思うが、最近テンションが上がるということが少ない気がする。まあ、昔から何かに大いに感動するということの少ない人間なので、あまり変わっていないといえばそうかもしれない。

来週は今週よりも気温が低めらしい。夏物の準備をしようかと思っていたが、その気も失せてしまう。季節がはっきりしない時期というのは過ごしにくいものだ。
このGWは自分にしては珍しく毎日何かしらかの用事があった。GWは例年どこにも行かず家でのほほんとしているのが常だったから、これはかなりの変化だ。どこもかしこも込み合っている大型連休にどこかへ好き好んで行くという文化がなかったため、多少ネジの巻きなおしが必要だった。本来なら完全休養に注がれるはずだった時間を誰かしらかと過ごしているというのは、負担になるかと思ったが、意外とそういう過ごし方の方が充実していて楽しいということが新しい発見だった。

前に母が言っていたが、休日というのは本当に休日らしく休んでしまうと、またエンジンをかけなおすのにエネルギーを使うらしく、平日と同じように過ごす方がいろんな意味で健康的ということだった。翻して自分のことを考えてみると果たしてその通りで、何もしないでぐーたらしているよりは頭の働きも体の疲労度も程よい程度に収まっている気がする。

充実した休日を過ごした後の過ごし方がまた問題だ。五月病的な無気力状態になっても困るし、この上がりっぱなしのテンションのまま突っ走ってもどうかと思う。キヨクタダシクが一番だ。先を見据えてうまいことやっていきたいと思う。

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