忘れもの

2013年2月5日 思うところ
最近、忘れものがひどい。


「何を食べた」とか、「何をしたか」とかいった過去志向の事から、「何をしなければならないのか」とか、「何をしたかったのか」とかいう未来志向のことに至るまで、頭の中に留めておくことも、すぐに引き出すこともできない。

忘れていたことを思い出せるならば、実際のところ大した問題ではない。思い出したならば、対応すればいいだけだ。


やっかいなのは、忘れているかどうかということに頭を悩ませなくてはならないということだ。

いくらメモを取ろうと、記録に残そうと、何かを忘れているのではないかということが頭に残って、常に若干の緊張感がまとわりついてしまう。

これが結構精神的に辛い。

いくら確認しても忘れているのではないかという思いが残ってしまい、心が休まる時がない。


そして忘れ去られた忘れものというのは、最もタチが悪い。時限爆弾のように時を刻みながら潜み続け、気づかないうちに爆発しているか、気づいたとしてももうどうしようもない。


実際のところ、忘れることへの恐怖で確認恐怖症が芽生えつつあるのを感じる。

今のところ生活に支障をきたすほどではないが、忘れないための対応策を講じるか、ハートを強靭にして忘れることへの恐怖心を取り除くかをしなくては次第に擦り切れてしまいそうで怖い。


いったい僕は、忘れものをしたかどうかに頭を悩ませ、忘れたことも忘れてしまう日々を過ごしながら、それでも生活を大切にできているのだろうか。何か大切なことを忘れてしまっても、新しいことに目を向け、何かを築いていくことの方が大切だろうか。そうやって見る未来の姿は輝いているのだろうか。

ただ、もし過去に戻る勇気と未来に進む豪気のどちらをも持てないでいるなら、それは愚かを通り越して哀しいことだろう。実際のところ、僕の忘れものは過去でも未来でもなく、今ここにあるのかもしれない。
今日もまだそこらここらに雪は溜まっている。
雪国の人から見たら「その程度で」と鼻で笑われるレベルでしかないけれど、備えも経験も少ない関東の人間にとっては一大事なのだ。
交通機関の乱れやら、滑って転んだりだとか、雪かきで筋肉痛だとかがちらほら聞こえる。

そんな中、一つ考えさせられることがあった。
帰宅途中でバスを待っていたときのことだ。

雪道を歩きたくない人は長蛇の列を作っていて、全員は乗れなさそうだった。
僕は列の真ん中くらいに並んでいたのだが、バスが到着して、列が進み始めた時に、僕の横で不穏な動きがあった。

それまでいなかったおばちゃんが並行して進んでいるのだ。
「むむっ」と思ったが、ちょっと様子を見ていると、案の定、列に入ろうとしてきた。

そこで、

「すみません、並んでるんですけど・・・」

と気弱でシャイな僕にしては、自分でも精一杯のきっぱりさで告げてみた。

するとおばちゃんはちらっとこっちを見て、まさに今気づいたかのような表情を浮かべ、去っていった。

こんな出来事だった。


個人的には、おばちゃんが割り込みたくなる気持ちもわかる。それに自分が乗れなくなるわけじゃないから、大きな問題ではない。

でも、この人が割り込むことで、律儀に並んでいた他の誰かがこのバスを乗り逃すことになるのは明らかだし、自分の目の前で割り込まれたのを黙って見過ごしたら、悪者はおばちゃんじゃなくて僕になりそうな気がした。だから一声かけた。

でも、声をかけたことで良いことをしたという気持ちにはなれなかった。
なぜか、嫌な気持ちばかりがつきまとった。

その嫌な気持ちの理由がよく分からなかった。それが本題だ。


マナーを守らないおばちゃんに対する怒りなのか、おばちゃんに声をかけたことに対する後悔なのか、悪者になりたくないという卑しい気持ちが嫌だったのか、それともそんな当たり前の正義をためらわずに振りかざせない自分に対する情けなさなのか。

それら全部がごっちゃになった正体不明の嫌な気持ちだけしか残らなかった。


結局はおばちゃんが割り込もうとしなけりゃよかったことだ。


でも本当に悪いのはなんなのだろう。


少なくとも、極力、公共マナーは守るようにしたいものだと思った。

毎年そうだけれど、僕にとって今年は特に重要な一年になるだろうし、なんとしても年の暮れには
「今年もいい一年だった♪」
と回想できるようにしたい。

去年はインフルエンザにかかったくらいで、特に大きなトラブルもなく、充実した一年だった。忙しさにかまけて、ここに書く事は少なかったけれど、書くべきことは本当はたくさんあったのかもしれない。

ただ、僕の性格的に書き始めると長くなってしまうことが多いので、今年は短くてもいいからできるだけ多く書いていきたいとは思う。

ということで、本年もよろしくお願いいたします。
今年の夏前くらいに放送していたドラマの中で
自らの社長の座を主人公に引き継いでもらうことを了承してもらった時に、その社長が言った一言がよく思い起こされる


「自分が最後じゃないっていうのはいいよな」


というのがそのセリフ。

実に広がりのある言葉で印象的だった。

自分の人生を賭けて築いてきたものがその先にも引き継がれるというのは、自分の生きた証が後の世にも残るということになるわけで、「無」を迎えた後にも「有」が息づいていてくれるという、安心感というか心強さというか気休めというかにつながるのだろう。


結局は人は認められたいのだ。


話は変わるけれども、
大学時代に友人二人と計三名様で飲んでいた時に、

「自分の名前を後の世にも残したいか?」

ということについて議論を交わしたことがあった。

答えは三人ともYES。

ただ方法論が違っていて、二人は自分の家族や知人に引き継がれていけばいいといった考え方だった一方で、もう一人は後の世の人が自分の成し得たことを知って尊敬されるような名の残し方をしたいと言っていた。

そしてそれから約10年が経ち、一人は家庭を築き、一人は大学で学問を究めんとし、一人は・・・となっている。


自分が最後にはなりたくない。誰かが心の中で自分を認めてくれていればいい。
それが血であれ、本であれ、一瞬であれ。


いつかまた3人が会った時に自らを誇らしくアピールできる、そんな格好の良い人間になっていると楽しいだろうなと思う。

下がり目

2012年7月1日 思うところ
ここのところ慌ただしさと去年からの疲れのようなものが出てきたせいか、落ち着いて物事を考えることが少なくなって、何かを記録に残すことや生み出すことに気が進まなくなってきた。

ぼーっとしてそこはかとなく浮かんだことを「ああでもない」「こうでもない」と突き詰めていくゆったりとした頭の体操をする時間がめっきりなくなっている。なんというか頭の中がグルグルしていてふらふら感があるし、ある浮かんだ思いを形にまとめて言葉に残そうにも、少しするとふっと消えてしまう。そういえば、通勤途中に音楽を聴くこともしなくなったし、思い続けている資格の勉強なども全く手を付けられていない。


特別不安定になっているわけではないと思うけれど、好調とは言い難い感じが今年に入って続いている。なんか特に変な病気でなければいいのだけれど。

とにかく仕事面では目の前のことを一つ一つ正確かつ迅速に、そして心を込めてできるように努力せねば。最近、ミス大石。
プライベートは将来のための準備をしっかりしたい。

そんな毎日が積み重なって、たどり着いたところが

「昔自分がこうなりたいと思っていたところだった」

ということになればいいなと思う。
現在は過去の積み重ねであって、未来は現在の延長線上にある。

その当たり前っぽさが危うい。


過去は現在から切り離されて断絶している。過ぎ去ったことに確からしさなど感じられない。

未来は来るものだと信じていなくともやってくるが、確実に現在の延長としてやってくるとは限らない。思いがけない不幸ややるせなさに打ちのめされるのは、「当然の権利」としての未来を盲信してしまっているからだ。


唯一確かなのは、今この時だけ。

今を真摯に生きれない者は過去も未来も哀しい。


必ずしも常に全力で生きようなどとは思わない。休息も遊びも必要だろう。

何を大切にしたいかを考えて、今を生きる。

そして現在の終点に立った時に、優しい歌で包まれたなら、幸せな人生だったと気付くのだろう。
相手のためを思っての行為が受け入れられず、否定だけならまだしも叱責を受ける羽目になると、さすがにガクーンとくる。

しかしよくよく考えてみれば、「相手を思っての行為」というのは、相手を喜ばしたいという自分のエゴ、つまり自己満足的な行為であって、相手を喜ばせられなかったというガクーンというよりは、自尊心を傷つけられたというガクーンの方が大きいのではないかと思った。

相手に喜んでもらうという動機が出発点ならば、否定されようが、叱責されようが、自分の思いが相手に届かなかったということを受け止め、何がいけなかったのかを反省できるはずだ。

ただのエゴだからこそ、もともと好意だったものが歪んで、嫌悪感や悪意に変わったり、復讐心までもが芽生えたりする。

もっとも、最初から自分のための行為だと思っての好意は、否定されようと叱責を受けようと、根が太いだけに揺れ動かないのかもしれない。その行為が相手のための行為だと思っているところにすでに嘘が生じているのだろう。

愛が、個を打ち捨てて自らを捧げる行為なら、僕には「愛してる」なんて言うことはできない。
僕には昔からある悩みが付きまとっている。

それは小学校高学年くらいに気付いたもので、気付いてしまったからには呪縛のようにその思いが離れなくなってしまっている。困るというほどではないが、ふとした寂しさや虚しさが生じてしまうことが多々あるのは確かだ。

その悩みとは一言で表現するなら

「自分が続いていないような感覚」

と言えると思う。

ある節目ごとに、環境の変化ごとに、共に過ごす人たちが変わるごとに自分が全く変質してしまっているような感覚があり、つい1年前の自分と今の自分が全くもって異なる存在であるかのように感じてしまうのだ。「自分の足跡が感じられない」と言い換えてもいいかもしれない。

主な原因は分かっている。

自分の性格に起因するのだが、時間的・環境的変化を経るたびに、自分のスタンスを変えてしまうことが第一の要因だと思う。

もともと自分をその場に合わせていくことが気楽な性質なので、その時その場によって自分を使い分けていることが大きいのだろう。それは敢えて変えているというよりは、そうするのが自分にとっての自然体になっていて、それは誰しも少なからずしていることだろうけれど、その度合いが多少強いのかもしれないと思っている。

また、人付き合いも大きくかかわっていると思う。

その時々の友人には困ったことがないのだが、学校を卒業するたびや環境が変わるたびに、その時々の友人とは繋がらなくなってしまい、ほとんどの友人とは連絡先を知っているだけの関係になってしまうのだ。じゃあ、連絡すればいいだけの話だが、なぜかそうすることに恐怖感を感じてしまって、関係性は閉ざされる一方になってしまう。共有した時間を持ち続ける人が少ないということが、寂寞な思いに結びついているのかもしれない。

そして、自分の「連続性」に決定的な打撃を与えた神様の悪戯もある。

前の自分を思い描くことができなくなって、自分を再構築しなくてはならなくなってしまうような錯覚(自分にとっては切実な問題だったが)に陥ってしまい、そうやって人格を断ち切った何者かに恨みの言葉を投げかけ続けたこともあった。


ただ、この感覚は決してマイナスな意味を持つだけのものではない。

人に合わせるのが苦にならない性格なため、人間関係で大崩れした経験は数少ないし、その時々だけの関係になってしまうといっても、良き友に囲まれて楽しい日々を過ごせた実感はある。そして、昔から繋がってくれている友もわずかだがいるし、そういう関係性を築けていることを確認するだけでも、自分の存在が連続しているのだとおぼろげながら感じられる。そして、神様の悪戯にせよ、それがなければ、結局今の自分ではありえないわけなのだから、その他の仮定を考えることはいくらでもできるけれど、今現在の自分だけでも確かなものとして実感して、日々を当たり前に過ごせることに感謝する気持ちが最近では持てるようになってきた。

恨み言を言うのももう飽きた。届くとも知れない毒を吐いて、結局その毒を自ら浴びるよりは、虚しくとも今あることを幸せだと思い、連続した自分を形作れるように明日に向かって進もうと思う。

そんな中で消え去った自分からの音信があれば、それは素晴らしい人生ではないか。


自分の孤独を嘆く人がいる。

それは、思いを寄せる人から音信がないとか、友人から連絡がないとかいうありふれたものだ。

だからありふれた孤独だと言っていいと思う。

ただ、誰にでも特殊な事情があるように、彼にも抱えているものがあって、彼自身はその孤独を生まれてからこの方、ずっと身にまとわりついている種類の孤独だと感じてしまっているらしい。

「助けてほしいときに誰もそばに寄りつかない。」
「人は過去の傷ばかりを突いてくる。」
「この孤独に耐えられない」

それは僕が思うに外的要因というよりは内的要因に属するものだ。

彼はマワリが助けてくれないと嘆き、救われることを期待するが、自分以外のマワリというのは不確定で不確実な要素が多い。自分の本当の姿でさえ分からないまま毎日を生きる人がほとんどなのに、マワリの動きまで完璧に把握するというのは無理な話だ。それに同じマワリの状況に置かれても、人によってはまったく動揺を生じないということもある

だから、心の問題のほとんどは結局は本人の内的問題だ。

ただ、先天的に心の弱い人もいるし、恵まれない過去を持っているために歪んだ心で苦しむ人もいる。生きることに強い意志を持っている人もいれば、多少の揺らぎでも絶望に陥る人もいる。

人が根本的に救われる方法は分からないが、人が変わったり、癒されたりするには3つの要素があると思う。

1、時間

2、人

3、変化

3つのどれをも手に出来ないということは原理的にあり得ないと思う。

そして過去の積み重ねというのは、人として生きた軌跡であって、その3つの蓄積だ。多くのピースをはめ込んで、より堅固な塔を築けているかどうかが人としての豊かさと強さを表しているのだと思う。

何の欠片も持たず、ただ哀しみの産声を上げて生まれた時を思ってくれれば、そしてその孤独の嘆きを拾ってくれた多くの愛のことを思ってくれれば、少しは彼の孤独も紛れてくれるのではないかと淡い期待をしている。

産声の孤独ほど切実で哀しいものはない。
人生において「何年の何月何日の何時に」「どこで」「誰と」「何をしていたか」がはっきりと言える瞬間というのは稀だ。
それを言える瞬間は、よほどの重大事が身に降りかかった時だろう。

僕の人生では今のところそんな経験は2回しかない。
その2度はどちらも多くの人が悲劇に見舞われた時であり、僕の経験は固有ではあるけれど、共有されてるものだと思う。

昨日は、その時から一年がたった日だった。
そして、同時代に生きた人たちにとって一つのアイデンティティを押し付けられた日だった。

多くの人がその瞬間に祈りをささげた。
それぞれの祈りは違えども、向かっている方向は近いのではないかと思った。

鎮魂と未来。

「生きる」ということを、これほど切実に感じることもないだろう。

与えられた不条理を受け入れるのは非常な覚悟と決意がいる。
明日へ向かうには、明るい材料が待っていることが明らかでなくてはならない。

人類がこれまで通ってきた道は、決して平坦ではなく、多くの悲劇や苦痛を伴ってきたはずだ。先人たちに出来て私たちに出来ないはずはないと信じている。

長く、険しい道になろうとも、このアイデンティティを自分の中に消化したい。

そして新たに一歩を踏み出し、いつの日かそれが連なって確かな道になることを願っている。
生きている実感がある毎日のはずだった

常に前を向いて先に進んでいるはずだった

無理がきく体でいるはずだった

格好よく働いているはずだった

好きなことができるくらいのお金は持っているはずだった

豊かな趣味と充実した休みがあるはずだった

もっと有能になっているはずだった

この齢には何かを成し遂げているはずだった

虚しさや孤独とは無縁のはずだった

笑いで満ちた世界にいるはずだった

生きることに疑問なんて持たないはずだった


でも

そんな現実がなければ

あなたと出会わないはずだった


だから

悪くない人生と言っていいかな

2012年2月17日 思うところ
「インフルエンザは完治した」とかかりつけのセンセイにお墨付きをもらったのだが、咳が止まらない。熱はないし、他に苦しい症状もないのでいいのだけれど、この季節に咳をしているという事実だけで、周りの人に白い目で見られてしまっているような感覚に囚われるのが嫌だ。

当然マスクはしているのだけれど、それも申し訳程度のことだし、かといってこんなことで仕事を休むわけにもいかないし…。

これだけインフルエンザが流行っているのだから、みんな気にするんだろうなぁ。

楽しい話題を振りまきたかったけれど、どうも気持ちが小さくなってしまっているようだ。明るい話題を探してきます。
鳴り響く楽音

拓ける次のステージ


続く高次の輩の列

心身削りて争うことが宿命


ひとたびファンファーレが吹かれれば

果て無き行進を続け

虚構の幸へと向かう愚かしさよ


赤子の緩き日々を思えども

既に振り返ることは可とならず


ただひと時の安寧の為に

定められし仇を討ちて

幻想の終末を迎えるを喜びとするのみ

追憶

2012年1月31日 思うところ
前にここで書いた日記を読み終えた。

いやー、こっぱずかしいものだ。

まず誤字脱字、言葉遣いの乱雑さ、統一のなさに恥ずかしくなり、
その当時の想いや状態が呼び起されて恥ずかしくなり、
プライバシーをさらけ出す表現があることに恥ずかしくなり、
今の方が稚拙であることに恥ずかしくなる。

それでも、戻れない日々への想いでキュンキュンとなったし、
自分も色々と考えていたんだなということを確認できたのは嬉しかった。

ただ、当時からどう成長したのかと尋ねられても、
今の自分では口ごもるだけだろう。
むしろ当時の方が熱を帯びていた分だけ上かもしれない。

つねに昨日の自分と対決することで、一段上の人間になれたらいいなと思う。
そしてその先にある理想を一つ一つ拾っていきたい。

もし暇があったら、みなさんも過去の自分と向き合ってみるのもいいんじゃないでしょうか?

2012年1月29日 思うところ
生まれることは簡単ではない

生きることは生易しくない


にもかかわらず


あなたのその言葉は

渇いた心に美しい響きを奏で

私の新たな存在証明となった


過去の呵責からの解放を

そして

未だ見ぬ世界を覗く力を


この一瞬の想いだけでも

私は呼吸を続けられる

選択

2012年1月27日 思うところ
無くすことは簡単だ

生み出すことは難しい

ならば敢えて

困難な道を選ぶ方が格好いい

創造主

2012年1月25日 思うところ
生まれた理由を知りたがる

なぜ生きるのかと問う

何も見えずに下を向く


人は言う

それは無意味だ

考えても意味がない


そう


生まれたことに意味はない

人類の誕生に理由はない

その奥にあるのは「無」の暗闇


しかし


私はここに生きている

私はここで思っている

私は0から1を生み続ける


暗闇に光を架ける

私たちこそ創造主

繋ぐ

2012年1月22日 思うところ
「ない」もののことは考えない

だから翼を求めない

しかし存在する可能性の喪失には怯える。

あなたが映らなくなることは

私の世界の崩壊と同値

だから

その温かさを離さない
ある時期から自分の感情の有無について少なからず疑問を抱いていたのだけれど、それについて真剣に考えたり調べたりはしてこなかったため、何かが欠けた人間として自分のことを考えていました。せっかく日記を再開したのだから、これをいい機会として自分が個人的に考えた感情の存在について書いてみようと思います。あくまで個人的な考えで、ほとんど何も調べないで頭の中だけで組み立てた妄想だけれど、僕にとっては都合がいいだけに気に入っている妄想であることは断っておきます。

以下、雑文


動物は、その進化段階に応じて本能→感情→理性が芽生える。
本能は先天的に、主に生命の維持と種の保存のために備わっている行動を指す。

ここからは人間の話。

人間におけるそもそもの感情は、本能の進化の形として表れる。赤ん坊が泣くのは本能的行動に近いものであり、ただ心のままに泣く。結果、周囲が関心を示すのは別問題であるが、ただ不快さや空腹を表すために心のままに泣く。

この本能から発展した感情を「感情その1」とする。「感情その1」は利己的な心のあり方であり、心の中をストレートに表す感情のあり方だ。

そして人間は社会的生活を送るにつれて、後天的に理性を手にしていく。理性は論理的思考であり、人間が社会生活を営む上で、いかに過ごしやすく、快適にいられるかを考えた結果に生み出されるものだと思う。自分を守る方法論として、社会生活の中で、いかにうまくやっていくかを考えていく結果、発達していく。

理性が発達していくと、「感情その1」との衝突が起こってくる。自分個人の心の動きを優先するのか、他との融和を目指すのかで大いに心の中が揺れる。その大衝突が第二次性徴と重なっているわけで、反抗期となって内なる闘争が表面化する。

結果、「感情その1」はすべてとは言わないまでも力を弱くし、理性によって統治された「感情その2」が芽生えてきて、その比率が大きくなる。

「感情その1」は本能的行動の延長線上にある心の動きだから、実感として大きな情動となる。一方、「感情その2」は理性によって統治されており、論理的考えに基づくものだから、大きな波として心には感じられない。よって、年を重ねるにつれて人間は感情の波が小さくなる。

もっとも「感情その1」と「感情その2」は、便宜的に分けただけであって、そもそもは同じ心の動きである。ただ、理性によるフィルターを通すかどうかが分かれ目であって、大人になっても「感情その1」的な心の動きが大きい人もいれば「感情その2」がほとんどを占める人もいる。

また、「感情その1」、理性、「感情その2」は常に共存しているとも考えられるわけで、その芽生えの時期も同時期かもしれない。「感情その1」と「感情その2」の分類も、「どの感情がどちらで、どの程度までがどちら」と単純化できるものではないとは思う。


以上、妄想でした。

かなりざっくりと書いてしまいましたが、この妄想にはまだまだ続きがあって、ネタには事欠かないので、それは今後のテーマとして残しておきたいと思います。



瞳の輝き

2012年1月16日 思うところ
瞳の輝きは瞳孔(目の真ん中の更に黒い部分)が開くことにより起こる生理的現象です。暗い場所に入ると瞳孔が開くことはよく知られていますが、嬉しいときや楽しいとき、人に好意を抱いているときも同じことが起こるらしいのです。

そして、その仕組みを知らなくとも、無意識的に相手に、「嬉しい、楽しい、あなたに好意を抱いている」といったメッセージを送っていることになり、それを受け取る側も同様に、無意識的にその魅力に引き込まれるらしいのです。つまり、瞳孔が開くことで起こる瞳の輝きにより、好意のやりとりが無意識的に行われているということになります。

ちなみに瞳を輝かす方法は、「前向きでいること、何かに夢中になること」だそうです。


と、ここまでは簡単に調べられたのだけれど、僕が気になったのは、別のこと。
それは、老人と赤ん坊と動物(哺乳類)は必ずと言ってもいいほど目が輝いているということ。赤ん坊はなんとなく分かるけれど、動物は? はたまた老人は?

個人的な妄想に満ちた答えは用意できているのだけれど、実際に仮定から推論、結論に至るまでが頭の中で組み立てたものだから、もう少し温めてから、書いてみたいと思います。

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