僕には昔からある悩みが付きまとっている。
それは小学校高学年くらいに気付いたもので、気付いてしまったからには呪縛のようにその思いが離れなくなってしまっている。困るというほどではないが、ふとした寂しさや虚しさが生じてしまうことが多々あるのは確かだ。
その悩みとは一言で表現するなら
「自分が続いていないような感覚」
と言えると思う。
ある節目ごとに、環境の変化ごとに、共に過ごす人たちが変わるごとに自分が全く変質してしまっているような感覚があり、つい1年前の自分と今の自分が全くもって異なる存在であるかのように感じてしまうのだ。「自分の足跡が感じられない」と言い換えてもいいかもしれない。
主な原因は分かっている。
自分の性格に起因するのだが、時間的・環境的変化を経るたびに、自分のスタンスを変えてしまうことが第一の要因だと思う。
もともと自分をその場に合わせていくことが気楽な性質なので、その時その場によって自分を使い分けていることが大きいのだろう。それは敢えて変えているというよりは、そうするのが自分にとっての自然体になっていて、それは誰しも少なからずしていることだろうけれど、その度合いが多少強いのかもしれないと思っている。
また、人付き合いも大きくかかわっていると思う。
その時々の友人には困ったことがないのだが、学校を卒業するたびや環境が変わるたびに、その時々の友人とは繋がらなくなってしまい、ほとんどの友人とは連絡先を知っているだけの関係になってしまうのだ。じゃあ、連絡すればいいだけの話だが、なぜかそうすることに恐怖感を感じてしまって、関係性は閉ざされる一方になってしまう。共有した時間を持ち続ける人が少ないということが、寂寞な思いに結びついているのかもしれない。
そして、自分の「連続性」に決定的な打撃を与えた神様の悪戯もある。
前の自分を思い描くことができなくなって、自分を再構築しなくてはならなくなってしまうような錯覚(自分にとっては切実な問題だったが)に陥ってしまい、そうやって人格を断ち切った何者かに恨みの言葉を投げかけ続けたこともあった。
ただ、この感覚は決してマイナスな意味を持つだけのものではない。
人に合わせるのが苦にならない性格なため、人間関係で大崩れした経験は数少ないし、その時々だけの関係になってしまうといっても、良き友に囲まれて楽しい日々を過ごせた実感はある。そして、昔から繋がってくれている友もわずかだがいるし、そういう関係性を築けていることを確認するだけでも、自分の存在が連続しているのだとおぼろげながら感じられる。そして、神様の悪戯にせよ、それがなければ、結局今の自分ではありえないわけなのだから、その他の仮定を考えることはいくらでもできるけれど、今現在の自分だけでも確かなものとして実感して、日々を当たり前に過ごせることに感謝する気持ちが最近では持てるようになってきた。
恨み言を言うのももう飽きた。届くとも知れない毒を吐いて、結局その毒を自ら浴びるよりは、虚しくとも今あることを幸せだと思い、連続した自分を形作れるように明日に向かって進もうと思う。
そんな中で消え去った自分からの音信があれば、それは素晴らしい人生ではないか。
それは小学校高学年くらいに気付いたもので、気付いてしまったからには呪縛のようにその思いが離れなくなってしまっている。困るというほどではないが、ふとした寂しさや虚しさが生じてしまうことが多々あるのは確かだ。
その悩みとは一言で表現するなら
「自分が続いていないような感覚」
と言えると思う。
ある節目ごとに、環境の変化ごとに、共に過ごす人たちが変わるごとに自分が全く変質してしまっているような感覚があり、つい1年前の自分と今の自分が全くもって異なる存在であるかのように感じてしまうのだ。「自分の足跡が感じられない」と言い換えてもいいかもしれない。
主な原因は分かっている。
自分の性格に起因するのだが、時間的・環境的変化を経るたびに、自分のスタンスを変えてしまうことが第一の要因だと思う。
もともと自分をその場に合わせていくことが気楽な性質なので、その時その場によって自分を使い分けていることが大きいのだろう。それは敢えて変えているというよりは、そうするのが自分にとっての自然体になっていて、それは誰しも少なからずしていることだろうけれど、その度合いが多少強いのかもしれないと思っている。
また、人付き合いも大きくかかわっていると思う。
その時々の友人には困ったことがないのだが、学校を卒業するたびや環境が変わるたびに、その時々の友人とは繋がらなくなってしまい、ほとんどの友人とは連絡先を知っているだけの関係になってしまうのだ。じゃあ、連絡すればいいだけの話だが、なぜかそうすることに恐怖感を感じてしまって、関係性は閉ざされる一方になってしまう。共有した時間を持ち続ける人が少ないということが、寂寞な思いに結びついているのかもしれない。
そして、自分の「連続性」に決定的な打撃を与えた神様の悪戯もある。
前の自分を思い描くことができなくなって、自分を再構築しなくてはならなくなってしまうような錯覚(自分にとっては切実な問題だったが)に陥ってしまい、そうやって人格を断ち切った何者かに恨みの言葉を投げかけ続けたこともあった。
ただ、この感覚は決してマイナスな意味を持つだけのものではない。
人に合わせるのが苦にならない性格なため、人間関係で大崩れした経験は数少ないし、その時々だけの関係になってしまうといっても、良き友に囲まれて楽しい日々を過ごせた実感はある。そして、昔から繋がってくれている友もわずかだがいるし、そういう関係性を築けていることを確認するだけでも、自分の存在が連続しているのだとおぼろげながら感じられる。そして、神様の悪戯にせよ、それがなければ、結局今の自分ではありえないわけなのだから、その他の仮定を考えることはいくらでもできるけれど、今現在の自分だけでも確かなものとして実感して、日々を当たり前に過ごせることに感謝する気持ちが最近では持てるようになってきた。
恨み言を言うのももう飽きた。届くとも知れない毒を吐いて、結局その毒を自ら浴びるよりは、虚しくとも今あることを幸せだと思い、連続した自分を形作れるように明日に向かって進もうと思う。
そんな中で消え去った自分からの音信があれば、それは素晴らしい人生ではないか。
コメント
嬉しいお言葉をありがとうございます。そう言ってもらえることで自分が認められていることが実感できて、毎日を過ごすモチベーションが上昇してきます。本当にありがとう。
ちなみに自分はミスチルのチケットさっぱり当たりません。ファンクラブに入っておくべきだったと今更ながら後悔です。
今頃コメントしてごめんなさい。
文体とてもいいですよ。私はまとまりのない文章になってしまいます。
私もミスチル追加公演の大阪が外れてしまいました。
ファンクラブも外れる事ありますが、入った方が得かもしれませんね。