ある時期から自分の感情の有無について少なからず疑問を抱いていたのだけれど、それについて真剣に考えたり調べたりはしてこなかったため、何かが欠けた人間として自分のことを考えていました。せっかく日記を再開したのだから、これをいい機会として自分が個人的に考えた感情の存在について書いてみようと思います。あくまで個人的な考えで、ほとんど何も調べないで頭の中だけで組み立てた妄想だけれど、僕にとっては都合がいいだけに気に入っている妄想であることは断っておきます。

以下、雑文


動物は、その進化段階に応じて本能→感情→理性が芽生える。
本能は先天的に、主に生命の維持と種の保存のために備わっている行動を指す。

ここからは人間の話。

人間におけるそもそもの感情は、本能の進化の形として表れる。赤ん坊が泣くのは本能的行動に近いものであり、ただ心のままに泣く。結果、周囲が関心を示すのは別問題であるが、ただ不快さや空腹を表すために心のままに泣く。

この本能から発展した感情を「感情その1」とする。「感情その1」は利己的な心のあり方であり、心の中をストレートに表す感情のあり方だ。

そして人間は社会的生活を送るにつれて、後天的に理性を手にしていく。理性は論理的思考であり、人間が社会生活を営む上で、いかに過ごしやすく、快適にいられるかを考えた結果に生み出されるものだと思う。自分を守る方法論として、社会生活の中で、いかにうまくやっていくかを考えていく結果、発達していく。

理性が発達していくと、「感情その1」との衝突が起こってくる。自分個人の心の動きを優先するのか、他との融和を目指すのかで大いに心の中が揺れる。その大衝突が第二次性徴と重なっているわけで、反抗期となって内なる闘争が表面化する。

結果、「感情その1」はすべてとは言わないまでも力を弱くし、理性によって統治された「感情その2」が芽生えてきて、その比率が大きくなる。

「感情その1」は本能的行動の延長線上にある心の動きだから、実感として大きな情動となる。一方、「感情その2」は理性によって統治されており、論理的考えに基づくものだから、大きな波として心には感じられない。よって、年を重ねるにつれて人間は感情の波が小さくなる。

もっとも「感情その1」と「感情その2」は、便宜的に分けただけであって、そもそもは同じ心の動きである。ただ、理性によるフィルターを通すかどうかが分かれ目であって、大人になっても「感情その1」的な心の動きが大きい人もいれば「感情その2」がほとんどを占める人もいる。

また、「感情その1」、理性、「感情その2」は常に共存しているとも考えられるわけで、その芽生えの時期も同時期かもしれない。「感情その1」と「感情その2」の分類も、「どの感情がどちらで、どの程度までがどちら」と単純化できるものではないとは思う。


以上、妄想でした。

かなりざっくりと書いてしまいましたが、この妄想にはまだまだ続きがあって、ネタには事欠かないので、それは今後のテーマとして残しておきたいと思います。



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