電車に乗っていると様々な光景に出くわす。その中でも数の力に物を言って我が物顔で大騒ぎしている集団を見かけるのは結構スリリングだ。生まれてくる嫌悪と羨望の交錯した感じがたまらない。でも、よほど道を外していない限り、僕はそのスリルを楽しむことにしている。静かに過ごしたいという欲求があるならば、楽しく騒いでいたいという欲求もあるだろうから、どちらか一方に限定する必要はない気がするからだ。どのレベルまで周りの人が我慢するかという問題はあるが、「迷惑がかからない程度」ならば、良しとしてあげたい。彼らは束の間だけれど、世界の中心にいる喜びに浸っているのだから。

話はさっぱりと変わるが、僕はずっと自分が世界の中心にいると思ってきた。親に「自分が世界の中心にいると思ったら大間違いだよ」と言われ、ショックを受けたこともあったが、その後も世界の中心とはなんなのだろうかと考えていた。でも、結局、僕は「自分の世界の中心には少なくともいるだろう」とふと思ってみた。すべての世界を感じられる主体としての僕は、その感覚世界の中心にはいるだろう、と。なにしろ僕がいなくなったら僕の世界はなくなるのだから。ただ、中心にいる主体としての僕と、周りで動きを見せる世界とは無関係なことがほとんどだ。よって、実際のところ中心にいたところでなんともならないのだけれど。

でも、本当に全てが自分を中心に回っていると思ってしまうような時がある。それは幻想なのだけれど、非常な心地よさを伴っていて、今なら空も飛べるのではないかと思ってしまうような、上昇気流に乗った感覚が生まれる。僕の場合、ほとんど何も知らなかった昔にはその感覚を味わったことが何度もあって、年を取るごとに現実を見てしまうためか、そういう浮いた感覚を感じることは減ってきたように思う。

「世界は自分だけのためにあるのではないし、自分の存在意義はそんなところにあるのではない」ということを理解し始めると、「世界の中心にいる」という昂揚感よりも、もっと強固な「何か」が自分の内に築かれていくような感じが生じてくる。その「何か」は曖昧で、はっきりとした形を持たず、一時的に確信に近くなったとしてもすぐに別のものに置き換えられてしまうあやふやなものだ。

でも僕の欲しいのは、世界の中心よりも強固な「何か」であって、それをしっかりと掴むことが出来れば、何も恐れずにすむのではないかという期待さえ生まれてくる。世界の中心は数えられないほどあっても、僕の中の「何か」は僕だけのものなのだろう。それは今時になってようやく芽吹いたばかりで、大輪の花を咲かせるまでにはどれくらいの時間が必要なのかも分からない。気が遠くなるが、それが世界の中心にいる者としての使命なのではないかなと思う。それを楽しめる僕は、控えめに言っても幸せ者だ。

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