この前、珍しく一家団欒の状況が生まれて、片側一車線の県道を車で走っていると、ナンバープレートを確認できないように折り曲げた、二台の原付が車の横をギリギリ抜けていったことがあった。それを見て家族であれやこれや言うことには
「カッコつけたいんだよ」
「警察に捕まえてくれとアピールしてるんだね」
「親に何かを訴えたいのかしら」
「ああいう若い時も必要なんだよな」
とさ。

彼らが、何を思ってナンバープレートを折っているのかは定かではないし、それに対して何か批判するのは個人的に好きではないので置いておくとして、とにかく自分がもし彼らの立場だったらということを想像してみようと思う。そもそも自分は「法に反する後ろめたいことはするな」という教えを受けて育ってきたので、そんな大それたことをしようとも思わないだろうが、もしそれでもそうせざるを得ない理由があったとしたなら、それはきっと「認めてもらいたいから」だと思う。

「自分は出来る人間なのだ」と。「自分の存在はこの程度ではない」と。「もっと自分を見てくれ」と。

人は常に誰かに認めてもらうことを欲しているのだと思う。誰でもいいのだ。だれでもいいからとにかく無条件で自分を認めて、できれば愛してくれる存在が欲しいのだと思う。それが、一般的には親であり、家族であり、恋人であったりする。

ただ、人が最も認めてもらうべき存在は、僕が思うに自分自身なのではないかと思う。自分さえ正しいと思っていれば、自分が認めてさえいれば、人は折れずに生きていける。それが他人に認めてもらう場合に比して、道徳的・論理的に正しいかどうかは問わない。とにかく自分が自分を認められなくなった時に、人は絶望を味わうのではないかと思う。他人に認めてもらえない場合は屈折した感情を抱くのであろうが。

だから、自分と言う存在は時に不可解だ。よく分からないところで自らを制御し、放出しようとする。世の中で一番理解できそうな自分自身さえも理解できないのならば、他人に頼って何かを得ようということは空恐ろしくさえ感じる。

でも、それだからこそ楽しいのだ。何も分からないからこそ楽しい。それは何かを分かる可能性が無限に広がっていることを意味しているからだ。その無限の可能性に僕はきっと魅入られている。だから今を生き、明日を生きたいのだ。

コメント

アミ
2009年6月7日5:22

おはようございます!

【自分自身】が一番怖い!
それと戦えるのはお若い証拠です。
私くらいの婆になりますと、何とか、言い訳を作って、自分を納得させます。
だんだん、楽なほうに楽なほうに、流されてきて・・・。
自堕落で、いやになります。(笑)
きっと、可能性の限界を思い知ったのでしょうね~。
お若いたなさんは、違う! 頑張ってください!

たな
2009年6月7日14:21

>アミさん

コメントありがとうございます。
いつも楽しくブログ拝見させてもらっています。
そうですね。まだまだ青いんでしょうね。
自分の可能性に流されて進むべき道も定まっていないのかも。
でも、そんな自分が嫌いではないんです。
何が出来るわけではないけれど、何かが出来そうな気がして‥。
とにかくやるだけやってみます。
激励の言葉ありがとうございました。

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