最近、忘れ物が多い。この前なんて、財布にお金を入れるのを忘れたし、昨日は停車中にエアコンを切るのを忘れていて、バッテリーを上げてしまい、某ロードサービース業者の方に来てもらった。やはり、何かに一生懸命になっている時や、その後はとにかく忘れ物が多くなるらしい。
この前の日曜に従妹(5歳)が来て、嵐のようにうちを賑やかにして去っていったのだが、その嵐は僕に様々なことを思い出させてくれた。「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉の意味や食事の時のマナー、嬉しいと感じたことを相手に伝える方法や本当に恥ずべき言動など本当に色々なことを僕の心に残していった。僕が幼い頃に置いてきた忘れ物の数々だ。
しかし、何より一番大きい忘れ物は自分の記憶に対するそれだと思う。学校時代は、分からなかったことや知らなかったことを新たに自分のものにすることで、多くの感動を手にしてきたはずだ。そして、自分が幼い当時に感じていた疑問の数々は、今冷静になって見つめ直せば、その大半は答えが出るはずだが、その疑問の存在自体を忘れてしまっているため、普段の生活を無感動のまま過ごさねばなくなる。大人になると新たに手にするものが極端に少なくなるために、過ぎる時間の速さも子供時代に比べて増すのだと思う。感動は人の時間を豊かにする。
しかし、僕は思う。大人になったからこそ新たに手に出来る感動があるのではないかと。基礎学力や多くの知識を積み重ねた今だからこそ、子どもの頃に深く疑問に感じていた「何か」を突き詰めることが出来るのではないかと。
大人の感じる疑問は、子どものそれ以上に素朴で、ある意味単純なものかもしれない。なぜなら、難しい公式や定義を必要とせず、いわゆる「勉強」とは違う、「~ってなんだろう?」的な曖昧な疑問がほとんどだからだ。だが、それだけに個々人で答えの出し方は全く違うし、何回も答えを書き直すことが必要となる。力を手にした今こそ、大人としての本当の見せ場が始まるのだと思う。とにかく、僕は一つでも多くの「何か」を覗いてみたい。
この前の日曜に従妹(5歳)が来て、嵐のようにうちを賑やかにして去っていったのだが、その嵐は僕に様々なことを思い出させてくれた。「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉の意味や食事の時のマナー、嬉しいと感じたことを相手に伝える方法や本当に恥ずべき言動など本当に色々なことを僕の心に残していった。僕が幼い頃に置いてきた忘れ物の数々だ。
しかし、何より一番大きい忘れ物は自分の記憶に対するそれだと思う。学校時代は、分からなかったことや知らなかったことを新たに自分のものにすることで、多くの感動を手にしてきたはずだ。そして、自分が幼い当時に感じていた疑問の数々は、今冷静になって見つめ直せば、その大半は答えが出るはずだが、その疑問の存在自体を忘れてしまっているため、普段の生活を無感動のまま過ごさねばなくなる。大人になると新たに手にするものが極端に少なくなるために、過ぎる時間の速さも子供時代に比べて増すのだと思う。感動は人の時間を豊かにする。
しかし、僕は思う。大人になったからこそ新たに手に出来る感動があるのではないかと。基礎学力や多くの知識を積み重ねた今だからこそ、子どもの頃に深く疑問に感じていた「何か」を突き詰めることが出来るのではないかと。
大人の感じる疑問は、子どものそれ以上に素朴で、ある意味単純なものかもしれない。なぜなら、難しい公式や定義を必要とせず、いわゆる「勉強」とは違う、「~ってなんだろう?」的な曖昧な疑問がほとんどだからだ。だが、それだけに個々人で答えの出し方は全く違うし、何回も答えを書き直すことが必要となる。力を手にした今こそ、大人としての本当の見せ場が始まるのだと思う。とにかく、僕は一つでも多くの「何か」を覗いてみたい。
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