2009年5月26日 思うところ
今日の日記は僕の妄想と偏見に満ちたものなので、それでも構わないという方のみお読みください。


人は生きていれば自然と何かしらかの形で恋をする、と僕は思う。
ちなみに広辞苑(第5版)では

【恋】
①一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。

とあり
さらに【切ない】を引くと

圧迫されて苦しい。胸がしめつけられる思いでつらい

とある。

何かしらかに真剣に思い焦がれることに拡大解釈するならば、異性間以外にも恋が成立するのではないか、僕は思う。だから、ここで言う恋を、必ずしも異性に対するものに限定はしない。異性以外に対する情愛だったり、知識に対するものだったり、さらに言えば、自らの才能や可能性、過去や生命に対するものだったりするのかもしれない。とにかく、すべてを投げ打つ覚悟でそれに身を捧げるということを僕はここでは恋と呼ぶ。

僕は基本的に恋は成就しないと思っている。少なくともそうなることはかなり稀だと思う。なぜなら、恋には終わりがないからだ。対象が存在する限り、恋は燃え続ける。もしくは消えてなくなる。仮に対象が消えたとしてもそれは成就とは呼ばないだろう。そうすると恋が成就するというのは幻想に過ぎないと思う。もしかしたら、恋の次の、安らかな段階として愛が存在するかも知れないが、ここではそれは置いておく。

恋は、対象に本当に真剣にならなければ生まれない、というものでもないらしい。ふとした時に生じる時もある。ただ、そういうぽっと出の恋は、真摯に対象を見つめ続けたそれと違って、瞬間だけのものだったり、実際何に恋していたのかが曖昧なまま消えてしまったりする。だから人は、本当に小さな恋であれば、いくつもしているのだと思う。

そして恋は、対象との駆け引きであると同時に、自らの内面との戦いでもある。「女性は恋をすると美しくなる」ということを聞いたことが、それは嘘ではないと思う。恋をすると、おそらく人の内側(おそらく脳)に働きかけて、様々な作用を及ぼす。特に顕著なのが、五感への働きかけで、全ての感覚が鋭くなる。例えば、恋をするとすべてが違って見えるとよく歌われるが、そのように感じるのはまやかしではなく本当によく見えるのではないかと思う。なぜなら、恋は人間の本能だからだ。恋を本能的行動と考えれば、それが脳に働きかけて、人間の持つ潜在能力が引き出され、様々な面で能力が高まるというのはあってもおかしくないのではないか。

恋は試練でもある。一定段階燃え上がった恋は、次のステージに進み、とにかく何かを達成したいという欲に駆られることになる。その欲が何に対するものなのかは個々それぞれで、それを乗り越えられるかどうかが一番の問題となる。そしてその先に何があるのかは、それを見たものにしか分からない。

ただ言えることは、たとえ恋の試練を乗り越えたとしても、結局それは一つのハードルを越えたに過ぎず、ハードルは永遠と様々な高さ設定で並べられている。その種類も多様である。そして、ハードルを越えられず、倒してしまった人にも次のハードルはまた表れる。恋に挫折はつきものだが、次を信じれば、必ず道は開けると、僕は経験上思う。でももし、そのハードルが悪意によって置かれた物だと曲解して、恋の熱情を曲がった道に向けることがあると、人間性が損なわれる。ルールから外れると大変なことになるのだ。ハードルを越えられないならば、それを倒してでも先に進むべきだ。自分の可能性に線を引く必要は全くないし、なんとかして乗り越えようという思いさえ持ちつづければ、きっといつかは結果が、何の形であれ付いてくると思う。

とにかく跳ぼうという勇気を持つことだ。練習もせず飛べる人など稀なのだから。何回かハードルを倒した後に自分の一番欲しかったハードルを越えればいいのだ。そして、その先にある光景を見たいと、僕は今、切実に思っている。

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