粘土

2009年5月23日 思うところ
この前、テレビで通信販売の番組をやっているのをボーっと見ていたのだけれど、商品を勧めている女性アナウンサーの一言がいまだにこびりついて離れない。それは
「女性ってこういう多機能なものが嬉しいんですよね~」
というアピールで、使い回されたかのようなありきたりな言葉なのだが、僕にはどうしてもしっくりこなかった。

わかるのだ。そう決めてかかるほうが、人の心理に与える効果が大きいことは。そして彼女が言わされていることも。でも、世界の全てを知っているかのような言い回しに、僕は危うさを感じてしまっただけなのだ。

「AはBだ。」と物事を固定すると、結論は実に単純明快だ。確かな事実として明らかならば、それは的確だろうと思う。しかし、何か不確かであいまいなもの、例えば人間性に関わることを一概に片付けてしまうのは、あまりにも虚しくないか。人間性に結論があるとは僕には思えない。

就職活動のとき「一分で自己PRをしてください」と言われて、絶句したことがある。準備をしなかったわけではない。自己PRと志望動機が面接における必須項目だと聞いていたから、意味があるのかどうかも分からない自己分析などをして、ある程度練っていった。でも、これは言い訳なのだけれど、実際に聞かれてみると自分の考えていった言葉が急に矮小なものに思えてしまって、音を伴うことがなかった。それを口にすれば、自分が固まってしまう気がした。それは面接どうのこうの以前にとても虚しい気がした。

何かを決めてかかることは必要なことだと思う。それは生きていく上での知恵であり、生活を楽にしてくれる。ただ、それには大きな意志が必要とされる。そこには多くの迷いが含まれるべきだと思う。簡単な道に流されて迷うこともなく手にする「常識」というものは、人を損なう。

放っておかれた粘土は歪な形で固まってしまうものだ。かと言って、固めないために水を流しつづけても、芯のないふにゃふにゃな状態のままだ。そこにも意志はない。とにかく捏ね続けることだ。自らの手で時間がかかっても。そうすればその粘土は芸術の域にまで達する確かな作品として残ると思う。

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