僕の知り合いにこういう人がいる。どう思ってか分からないが、彼は知っている人に会うと、手のひらを相手に向けてタッチするように求めてしまう。別にそれ以上は何もしない。ただ無言で手のひらを合わせるだけだ。
その光景を初めて見た時、僕はなんとなく嫌な感じがした。なんだが変な宗教の儀式じみていて爽やかなものではないし、挨拶だとしても、相手に手を合わせろと強制している感じがしたからだ。僕の感覚は多少古風なところがあるのかもしれないが、そんなことをしているその人の神経とそれに応じる周りの人の感覚をおかしいんじゃないかとも思った。
しかし、僕は自分がなぜその行為に嫌な感じを抱いたのかを不思議に思った。そして、彼はなぜそんなことをしているのかと考えてみた。
これは僕の中で組み立てた推論なのだが、彼は何か「確かなもの」を求めているのではないか。ただ言葉で挨拶を交わしただけでは手に入れることの出来ない、何か「確かなもの」。それは自分が現実と結びついている実感と言ってもいいかもしれない。彼は手を合わせる感触を味わうことで、自分がここにいるということを確認しているのではないかと思った。
そう想像すると、彼のその行為が急に切実なものに思えてきた。彼はどうにかして自分の存在を証明しようとしているのだ。そうせずにはいられない何かがあるのだと。
そこまで考えて、僕は初めに感じた嫌な感じがなんだったのかが、なんとなく分かった。羨ましかったのだ。恥じることなく自分の欲求を満たすことのできることが。自分には出来ない方法で「確かなもの」を手にしていることが。つまりは嫉妬していたのだろうと思う。そんな自分の小ささを恥じた。
生きるということは、なんなのか。「なぜ生まれた」とか、「なぜ生きるのか」とかいった理由を求める問いには、未だに虚ろな答えしか見出せないけれど、「何のために生きるのか」という目的に関しては、自分の中で言い聞かせていることがある。生きることを感じるために生きているのだと。リアルを感じるために生きているのだと。それは人によって違うだろうし、その感じる程度も違うというのは確かなようで、それを周りから受け取る人もいれば自ら作り出す人もいるし、プラスのものをそうだという人がいればマイナスなものをそうだと思う人もいる。その人その人のリアルがあって、それは交じり合いながらも重なることはないのだろう。目的が目的になっていると思ってしまうところが自分でも不可解なのだけれど、なんとなくそうなのかなと思う。
このことは非常に哀しみと恐怖を含んでいるように思う。でも同時に
明るさと希望を見出せるものでもある。
このことを見つけるために、僕は多くの時間を費やしたし、時には暗い闇に沈んだこともあった。でも、それらすべてが今では大きな財産になっている。誰もが理解していることを自分が本当に理解するというのは、僕にとっては実に難しいことなのだ。そういった回り道が良かったと思えるのは、一つのリアルがしっかりと自分の中に存在しているという紛れもない事実と、回り道はまだ続いているという期待だ。
その光景を初めて見た時、僕はなんとなく嫌な感じがした。なんだが変な宗教の儀式じみていて爽やかなものではないし、挨拶だとしても、相手に手を合わせろと強制している感じがしたからだ。僕の感覚は多少古風なところがあるのかもしれないが、そんなことをしているその人の神経とそれに応じる周りの人の感覚をおかしいんじゃないかとも思った。
しかし、僕は自分がなぜその行為に嫌な感じを抱いたのかを不思議に思った。そして、彼はなぜそんなことをしているのかと考えてみた。
これは僕の中で組み立てた推論なのだが、彼は何か「確かなもの」を求めているのではないか。ただ言葉で挨拶を交わしただけでは手に入れることの出来ない、何か「確かなもの」。それは自分が現実と結びついている実感と言ってもいいかもしれない。彼は手を合わせる感触を味わうことで、自分がここにいるということを確認しているのではないかと思った。
そう想像すると、彼のその行為が急に切実なものに思えてきた。彼はどうにかして自分の存在を証明しようとしているのだ。そうせずにはいられない何かがあるのだと。
そこまで考えて、僕は初めに感じた嫌な感じがなんだったのかが、なんとなく分かった。羨ましかったのだ。恥じることなく自分の欲求を満たすことのできることが。自分には出来ない方法で「確かなもの」を手にしていることが。つまりは嫉妬していたのだろうと思う。そんな自分の小ささを恥じた。
生きるということは、なんなのか。「なぜ生まれた」とか、「なぜ生きるのか」とかいった理由を求める問いには、未だに虚ろな答えしか見出せないけれど、「何のために生きるのか」という目的に関しては、自分の中で言い聞かせていることがある。生きることを感じるために生きているのだと。リアルを感じるために生きているのだと。それは人によって違うだろうし、その感じる程度も違うというのは確かなようで、それを周りから受け取る人もいれば自ら作り出す人もいるし、プラスのものをそうだという人がいればマイナスなものをそうだと思う人もいる。その人その人のリアルがあって、それは交じり合いながらも重なることはないのだろう。目的が目的になっていると思ってしまうところが自分でも不可解なのだけれど、なんとなくそうなのかなと思う。
このことは非常に哀しみと恐怖を含んでいるように思う。でも同時に
明るさと希望を見出せるものでもある。
このことを見つけるために、僕は多くの時間を費やしたし、時には暗い闇に沈んだこともあった。でも、それらすべてが今では大きな財産になっている。誰もが理解していることを自分が本当に理解するというのは、僕にとっては実に難しいことなのだ。そういった回り道が良かったと思えるのは、一つのリアルがしっかりと自分の中に存在しているという紛れもない事実と、回り道はまだ続いているという期待だ。
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