好きということの曖昧さ
2009年5月19日 思うところ その昔、こんな僕にも好意を持ってくれた女の子がいて、その子に「私のこと好き?嫌い?」と聞かれたことがあった。
僕はそのときに完全に沈黙してしまった。戸惑ったのだ。その子がどうのこうのというわけではない。僕には「好き」ということ自体が曖昧でよく分からなかったし、「嫌い」ということも実感が持てなかった。
思春期ともなれば、誰が誰を好きだとかいうことが当たり前のように周囲を騒がし、それを恥ずかしいことと思ったり、人に知られないようにしたりするものらしかったのだが、僕にはそれが恐怖だった。誰を思い浮かべても、良い所もあるし、いただけない部分もある普通の人間であり、好きと嫌いという単純な二元論で割り切れるような存在は一人としていなかったからだ。周りの友達が初恋がどうのこうのと言っていても、僕自身が想像するレベルで人を深く想えるようなことは、いや、想ったと思えることはなかった。
その頃から、僕は「好き」という感情を自分の中につくろうとした。でも、何かを「好き」だと思おうとすると、その対象物を多角的に分析して、その総合的な評価として「好き」と思おうとするといった、他との比較の結果としての相対的な判断であり、決して絶対的な「好き」という感情は芽生えることがなかった。
そんなことを繰り返しているうちに、だんだんと絶対的な「好き」という感情が、実は存在しないものなのではないかと思えるようになった。きっと誰もが、何かを感じたときにそう割り切ってしまえば簡単だから便宜的に使う表現なのだろうと思った。そうでなければ、思春期という独特の雰囲気に流されて、誰もがそう感じさせられているだけなのだろうと思った。
そう考えるようになって、僕は自分の中に無理して「好き」とか「嫌い」とかいった感情をつくろうとすることをやめた。心地よいと思える仲間がいればそれで十分だったし、特定の誰かに「好き」という曖昧な感情で結び付けられるのは自分の重荷になるだけだろうと信じていた。
ただ僕が夢中になったのは、自分の感覚とは完全にずれている雰囲気を持った人たちへ接触していくことだった。それは学力や運動能力であったり、考え方や感性であったり、外見であったりしたが、そういう人たちと一緒にいると、自分の中にはない新しい世界が開けていけるような気がした。その人たちのへんてこりんな言動は僕だけが異質ではないということを感じさせてくれた。
そして、ちょっとしたギャンブルにのめりこんだ。最初は後ろめたい気持ちがあったが、1度知ってしまうとやめられない麻薬のようなものだった。決して勝ってお金を手に入れようと思ったわけではない。むしろ、僕は負けている時の焦燥感や自分が小さく思える感覚を好んだ。どうしようもない状態に陥った時の胸が締め付けられるような感覚を味わうだけで、僕は自分がそこに存在しているという実感を手に入れることが出来た。
そのような生活を送っている間も、僕には「好き」という感情は曖昧なままであったし、いまだにそうだ。僕にとってみれば、「愛」という感覚のほうが、「好き」という感情よりまだ理解できる。
一時期、そのような感情の欠落は、僕の不安定さのせいなのだろうと嘆いたこともあったが、今では良かったとさえ思っている。もし僕が「好き」という感情を知っていたら、きっと苦しい思いをしただろうし、それ以上に多くの人に苦しい思いをさせたかもしれないからだ。ただ単に逃げていただけなのかもしれないと思うこともあるが、それは逃げていたのではなく、長さを持った生き方が出来なかった僕にとっては自然な成り行きだったのだろう。曖昧な言い方をするならば神様のいたずらなのだと思う。
僕はそのときに完全に沈黙してしまった。戸惑ったのだ。その子がどうのこうのというわけではない。僕には「好き」ということ自体が曖昧でよく分からなかったし、「嫌い」ということも実感が持てなかった。
思春期ともなれば、誰が誰を好きだとかいうことが当たり前のように周囲を騒がし、それを恥ずかしいことと思ったり、人に知られないようにしたりするものらしかったのだが、僕にはそれが恐怖だった。誰を思い浮かべても、良い所もあるし、いただけない部分もある普通の人間であり、好きと嫌いという単純な二元論で割り切れるような存在は一人としていなかったからだ。周りの友達が初恋がどうのこうのと言っていても、僕自身が想像するレベルで人を深く想えるようなことは、いや、想ったと思えることはなかった。
その頃から、僕は「好き」という感情を自分の中につくろうとした。でも、何かを「好き」だと思おうとすると、その対象物を多角的に分析して、その総合的な評価として「好き」と思おうとするといった、他との比較の結果としての相対的な判断であり、決して絶対的な「好き」という感情は芽生えることがなかった。
そんなことを繰り返しているうちに、だんだんと絶対的な「好き」という感情が、実は存在しないものなのではないかと思えるようになった。きっと誰もが、何かを感じたときにそう割り切ってしまえば簡単だから便宜的に使う表現なのだろうと思った。そうでなければ、思春期という独特の雰囲気に流されて、誰もがそう感じさせられているだけなのだろうと思った。
そう考えるようになって、僕は自分の中に無理して「好き」とか「嫌い」とかいった感情をつくろうとすることをやめた。心地よいと思える仲間がいればそれで十分だったし、特定の誰かに「好き」という曖昧な感情で結び付けられるのは自分の重荷になるだけだろうと信じていた。
ただ僕が夢中になったのは、自分の感覚とは完全にずれている雰囲気を持った人たちへ接触していくことだった。それは学力や運動能力であったり、考え方や感性であったり、外見であったりしたが、そういう人たちと一緒にいると、自分の中にはない新しい世界が開けていけるような気がした。その人たちのへんてこりんな言動は僕だけが異質ではないということを感じさせてくれた。
そして、ちょっとしたギャンブルにのめりこんだ。最初は後ろめたい気持ちがあったが、1度知ってしまうとやめられない麻薬のようなものだった。決して勝ってお金を手に入れようと思ったわけではない。むしろ、僕は負けている時の焦燥感や自分が小さく思える感覚を好んだ。どうしようもない状態に陥った時の胸が締め付けられるような感覚を味わうだけで、僕は自分がそこに存在しているという実感を手に入れることが出来た。
そのような生活を送っている間も、僕には「好き」という感情は曖昧なままであったし、いまだにそうだ。僕にとってみれば、「愛」という感覚のほうが、「好き」という感情よりまだ理解できる。
一時期、そのような感情の欠落は、僕の不安定さのせいなのだろうと嘆いたこともあったが、今では良かったとさえ思っている。もし僕が「好き」という感情を知っていたら、きっと苦しい思いをしただろうし、それ以上に多くの人に苦しい思いをさせたかもしれないからだ。ただ単に逃げていただけなのかもしれないと思うこともあるが、それは逃げていたのではなく、長さを持った生き方が出来なかった僕にとっては自然な成り行きだったのだろう。曖昧な言い方をするならば神様のいたずらなのだと思う。
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