めがね

2009年5月18日 思うところ
 僕の視力が低下したのは小学校3年の終わり頃だったと思う。それが悲しかったのは母がなぜか怒っていたからで、学校でいくぶん黒板の文字が見えにくくなったという事実を除けば、大して不便さを感じていなかった。

見えないところは想像力で補うことが出来た。例えば、そこにいるのが誰だか見えなくても、その歩き方やくせでその人を認識することが出来たし、黒板の文字にしても、前後の文脈や教科書の記述と照らし合わせるなどして推測することが出来た。

 というより、むしろその視界の不透明さに慣れるにしたがって、一つの憂鬱を払拭することができた。それは、見ることで感じてしまう他人の感情だった。自分が感情表現に長けていなかった反面、他人の情動には敏感だった僕は、それまで周りにどう見られているかを気にするきらいがあり、人のわずかな反応でもすぐに読み取ってしまう、または深読みしすぎてしまう性質があった。

 それが一気に楽になった。見えないことで、大半の感情は僕をすり抜け、必要な時には自分の中でそれがどのようなものかを推測するという、一見まどろっこしい方法で感情のキャッチングは完結した。こうして僕は感情というものをできるだけ自分の中だけで消化していった。

 そして数年後いよいよ視力の低下が著しくなって、どうしても日常の生活に差し支えるということになり、僕はめがねをかけ始めることになった。久しぶりに見るクリアな世界は、あらゆるものが違って見えた。

 最初のうちは何もかもが新鮮で、ああ、この景色はこういう感じだったんだ、とか、この人はこんな顔をしていたんだ、とか、新たな発見に胸が躍った。
 
 しかし、しかしだ。僕の中に何かおかしな感覚があることに気付いた。どうしても合わないのである。自分が数年かけて構築してきた感情と実際に繰り広げられたそれは、どう考えても食い違っていた。僕はその時に思った。僕の考えていた感情というものは実際のそれとは異なるものなのではないかと。実は感情というものは頭で考えるものではなかったのではないかということを。

 その時から、僕は感情を追い求めた。どうすれば、感情を感じれるのか、どうすれば、自分が生きているということを熱く感じれるのか。しかし、考えれば考えるほどそれは感じることは出来ず、次第に僕は感情というものは、自分が想像するほど、身近に感じられるものではないのではないかと思うようになった。きっと、めがねを通して見る人の感情というのは、自分の存在を知ってほしいがためにあげる産声のようなものなのだろうと思った。僕は産声をあげられないだけなのだろうとも。

 結局、現在までこのことは疑問の一つとして僕の中に残っている。自分が他人になれない限り、その答えは出ることがないだろうし、今となってはそれがどうであろうとあまり気にはならなくなった。

 ただ分かったことは、自分も涙を流すということと、誰かを想って胸が熱くなるということが現実に起こるということだ。

 でも、僕はいまだにそれが本当の感情というものなのかどうだか分からないでいる。

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