人と会うたびに思うことがある。会う人が「どっちの側の人間」なのかということだ。昔からぼんやりとは思い描いていたのだが、それが色濃くなってきた感じだ。

 どっちの側というのは、陰陽二元論的な考えから持ってきたものだ。例を挙げて言うと、周りの人を自らの力で照らすことで自分の本領を発揮する側か、周りの人に照らされて自分の本領を発揮する側か、といった種類の二元論だ。明るい暗いともいえるかもしれない。ただ、性格的な明るい暗いというのはまったく関係がない。

 昔から人に会うたびに思うのだが、この二元論はきっと先天的なものではないと思う。ある程度は遺伝的なものもあるだろうが、成長過程で色々な影響を受けることによって分岐するもののような気がする。だからどちらかあいまいな感じの人も中にはいる。だが、大人と呼ばれる段階に踏み入れている人に関して言えば、結構はっきりと分かれている感じがするのだ。

 ただこれが難しいところなのだが、表面上の振る舞いだけではその陰陽は見分けることが出来ないと思う。もっと根源的な何か奥深いところにその人の培ってきたものが宿っている気がする。おそらく本人にも分からないところでそれは息づいている。きっと各人に問えば、誰しもが「陰」的な性質だと答えるかもしれない。でも、それは確かではないこともあるのではないか。そういう本人にも分からない自分というものがあっても良いと思うのだ。

 そして、陰と陽は惹かれあうが、陰同士、陽同士は反発するといった性質もある。同属嫌悪といったところだろうか。なにか自分と同じに見える人というのは、生理的に受け付けなかったりする。逆に自分とまったく違うタイプの人なのに妙に馬が合う。そういう経験は誰にでもあるのではないか。もちろん例外はあるが。
 
 グダグダと書いてみたが、このことを考え始めるきっかけとなったのが、昔に読んだ宮城谷昌光さんの『孟嘗君』だ。物語の中でほぼ主人公的な位置を占める活躍をする白圭という人物が、控えめな美しさをたたえた女性と自分の関係性を評して「自分は陰の人なので、あのような陽の気を纏った人を妻としたい」といったことを思うシーンがあった(と思う)。それを読んだ時に僕は深く考えさせられる所があった。白圭のような人の先に立って行動する人物でも自分を「陰」と思うのかと。ならば陽を纏うにはどうしたらいのかと。そのことを頭に入れたときから、自分の考え方にも多少なりとも変化が起こった。

 そういうきっかけで、僕は人と知り会うたびにその人の本性を覗き見ようとしている。でもほとんど分からない。分かるはずもないのかもしれない。ただ、そういう考え方をすることで世界が広がったのは間違いないと思う。人と自分との関係性を考えるのも確かに大切だ。しかし本当に大切なのは、相対的な関係性を求めて人の本性を覗き見ることではなく、絶対的なものとしての自分を磨くことなのだろう。 
 

 

 
 

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