小学生の頃だった。ワゴンタイプの軽自動車で色々な商売道具を乗せてやってくる型屋のおっちゃん(おっちゃんというのが当時の呼び方だったし、それ以外の呼び名は適当でない気がする)がいた。型屋というのは、動物やヒーローものなど様々なものをかたどった素焼きの型に粘土を入れて型を取り、7色(金、銀、赤、青、緑、紫、橙)の色粉を型を取った粘土に彩色して作品を作り、それをおっちゃんに見せて点数をもらうというものだった。型や粘土、色粉はお金を払うか、点数で交換するかしないと手に入れることはできないため、初期段階ではお金がある程度かかったが、作品を上手く作ればおっちゃんも点数を多くくれたため、こつを覚えれば点数で必要なものは賄うことができた。
この型屋遊びに一時期は熱中したものだった。一通り道具を揃えてしまえば、あとは粘土さえ用意すればいいという感じだったので、小さい作品なら20円程度、大きいものでも50円あれば作れていた。そしてなんといっても、この型屋遊びの醍醐味は、作品を上手く作る達成感とおっちゃんとの交渉にあった。作品を上手く作ることはもちろんのこと、おっちゃんにそれをいかにアピールするかが重要だった。こちらとしては大きく投資した大型作品を作ったとしても、おっちゃんがそれを評価してくれなくては、点数はもらえず作品の価値は大きく下がってしまう。点数を沢山もらえるかどうかは、次の拡大再生産に向けての生命線なのだ。そういう意味でこの遊びにおいてはおっちゃんがルールだった。
はっきりいって、この型屋遊びには最終目標というものがなかった。ただ、もっと大きい型を使ってでっかい粘土を嵌め込み、色を沢山使って作品を作りたいといった、「次の小さな夢」を目指すだけの遊びだったと思う。それでも、型屋のおっちゃんが来た時には20〜30人の小学生が遊びにきていたし、それぞれが型の貸し借りや共同作業で作品を作るなどして楽しんでいたと思う。自分の型のコレクションが増えるとそれは満足したし、いつもより多くの点数をもらえると自分の全てが認められたようで嬉しかった。
ただこの型屋遊びにはオチがある。この型屋のおっちゃんは、子供たちが点数を多く手にした頃合を見て、予告なしにある日突然にいなくなるというのが定番だった。そうなると、苦労して集めた点数も型も道具達も無意味になった。道具を持っていつもの広場に駆け出していったのに、そこには何の活気もない空虚な場が広がっていた時のあの虚脱感は忘れられない。もっとも、おっちゃんは年に2、3回はまわってきたが。
中学になると部活が忙しくなってさすがに型屋遊びには行かなくなったが、あれは僕の小学校時代を彩る遊びの一つとして忘れられないものだ。いまでも型屋遊びというのはやっているのだろうか?おっちゃんは僕が小学生の時ですでに高齢だったからどうかは分からないが、古き良き遊びの伝道者として僕の心には深く残っている。
この型屋遊びに一時期は熱中したものだった。一通り道具を揃えてしまえば、あとは粘土さえ用意すればいいという感じだったので、小さい作品なら20円程度、大きいものでも50円あれば作れていた。そしてなんといっても、この型屋遊びの醍醐味は、作品を上手く作る達成感とおっちゃんとの交渉にあった。作品を上手く作ることはもちろんのこと、おっちゃんにそれをいかにアピールするかが重要だった。こちらとしては大きく投資した大型作品を作ったとしても、おっちゃんがそれを評価してくれなくては、点数はもらえず作品の価値は大きく下がってしまう。点数を沢山もらえるかどうかは、次の拡大再生産に向けての生命線なのだ。そういう意味でこの遊びにおいてはおっちゃんがルールだった。
はっきりいって、この型屋遊びには最終目標というものがなかった。ただ、もっと大きい型を使ってでっかい粘土を嵌め込み、色を沢山使って作品を作りたいといった、「次の小さな夢」を目指すだけの遊びだったと思う。それでも、型屋のおっちゃんが来た時には20〜30人の小学生が遊びにきていたし、それぞれが型の貸し借りや共同作業で作品を作るなどして楽しんでいたと思う。自分の型のコレクションが増えるとそれは満足したし、いつもより多くの点数をもらえると自分の全てが認められたようで嬉しかった。
ただこの型屋遊びにはオチがある。この型屋のおっちゃんは、子供たちが点数を多く手にした頃合を見て、予告なしにある日突然にいなくなるというのが定番だった。そうなると、苦労して集めた点数も型も道具達も無意味になった。道具を持っていつもの広場に駆け出していったのに、そこには何の活気もない空虚な場が広がっていた時のあの虚脱感は忘れられない。もっとも、おっちゃんは年に2、3回はまわってきたが。
中学になると部活が忙しくなってさすがに型屋遊びには行かなくなったが、あれは僕の小学校時代を彩る遊びの一つとして忘れられないものだ。いまでも型屋遊びというのはやっているのだろうか?おっちゃんは僕が小学生の時ですでに高齢だったからどうかは分からないが、古き良き遊びの伝道者として僕の心には深く残っている。
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