コンピューターが社会に浸透してきた昨今においては、筆記具を持って書くということは少なくなってきたように思う。しかも、学生生活を終えた人ならなおさらだ。自分も最近はめっきり自分の手で書くということは少なくなっている。ややもすると、久しぶりに自分で書いた文字が自分のものでないような感覚に襲われることもある。
大学時代の締めくくりである卒業論文のことであるが、僕の所属していた研究室は教授の方針で手書きで提出するように指導されていた。はっきり言って、その意味するところが最初は分からなかった。教授が単純に機械嫌いなのだろうとか、学生いじめのためだろうとか噂されていたが、教授も好き好んで、解読困難な学生の書きなぐり論文を読みたくはないだろう。実際に書いてみた今では、多少はその意味が分かったような気がする。
最初はただ単に辛かった。僕は特に筆圧が強い方なので、3枚も書いていると手が痛くなってしまって先へ進めない。よちよち歩きの赤ん坊のようなものだった。なぜこんな作業をしなくてはいけないのかと思った。しかし、終盤になると、自分の生み出した論文が妙にいとおしいような気がしてきた。学部生の書くものが大した内容を含んでいるわけはないので、誇らしいのとはまったく違うが、こうして辛い思いをして書くことに大きな意味があるような気がした。
結果、丁寧に書こうとしたものの汚い字となり、数十枚の論文を書き終えたわけだが、書くという作業を通したおかげで、論文作成の過程は自分の脳裏に深く刻まれている。書くということは、ある意味自分と向き合うということなのだろうとおぼろげながら分かったような気もする。執筆作業中には自分に対する落胆や、希望、湧き出してくる新たな疑問など、様々な気持ちと戦いながら「書く」と言う作業を進めていった。後悔もあったし、新たな発見もあった。自分で生み出した論文だったからこそ、「書く」という作業がよりいろいろな感情に満ちたものになったのだろうと思う。
だからこそ、手書きの温かさはなくならないのだろうと思う。僕も自分の字には大して自信はないが、書くときにはできるだけ丁寧にと思っている。何かの思いを込めて「書く」。それには相手に伝わるものがあるのではないか。
大学時代の締めくくりである卒業論文のことであるが、僕の所属していた研究室は教授の方針で手書きで提出するように指導されていた。はっきり言って、その意味するところが最初は分からなかった。教授が単純に機械嫌いなのだろうとか、学生いじめのためだろうとか噂されていたが、教授も好き好んで、解読困難な学生の書きなぐり論文を読みたくはないだろう。実際に書いてみた今では、多少はその意味が分かったような気がする。
最初はただ単に辛かった。僕は特に筆圧が強い方なので、3枚も書いていると手が痛くなってしまって先へ進めない。よちよち歩きの赤ん坊のようなものだった。なぜこんな作業をしなくてはいけないのかと思った。しかし、終盤になると、自分の生み出した論文が妙にいとおしいような気がしてきた。学部生の書くものが大した内容を含んでいるわけはないので、誇らしいのとはまったく違うが、こうして辛い思いをして書くことに大きな意味があるような気がした。
結果、丁寧に書こうとしたものの汚い字となり、数十枚の論文を書き終えたわけだが、書くという作業を通したおかげで、論文作成の過程は自分の脳裏に深く刻まれている。書くということは、ある意味自分と向き合うということなのだろうとおぼろげながら分かったような気もする。執筆作業中には自分に対する落胆や、希望、湧き出してくる新たな疑問など、様々な気持ちと戦いながら「書く」と言う作業を進めていった。後悔もあったし、新たな発見もあった。自分で生み出した論文だったからこそ、「書く」という作業がよりいろいろな感情に満ちたものになったのだろうと思う。
だからこそ、手書きの温かさはなくならないのだろうと思う。僕も自分の字には大して自信はないが、書くときにはできるだけ丁寧にと思っている。何かの思いを込めて「書く」。それには相手に伝わるものがあるのではないか。
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