今日、毎月定例の墓参りに行ってきた。毎月のことなので、それほどお墓は汚れていなかったが、一通り水拭きして周囲の雑草を手入れし、花を供えてきた。そして、線香をあげて、手を合わせたわけだが、その後に思った。
「一体、何のために祈っているのだろう」と。

 よく分からなかった。お墓に来ているわけだから、お墓に納まっている祖父に対しての祈りなのかもしれないが、祖父はすでに亡くなっているわけで、死んだ人のために祈るというのも、どこかおかしい気がする。祈りという行為自体がなにか抽象的なぼやけた印象がする性質のもののような気がしてならない。

 僕は一応、仏教を信奉していることになっているが、基本的に無神論者なので、死んでしまったら天国とかいうことはあまり考えない。それは死んでみないと分からないことだから、考えないようにしている。だったら何故お墓参りに行くのかと突っ込まれたらやるせないが、やはり、自分が死んだ後のことが不安なのだろう。無神論者であっても、死んだ後に誰も自分のことを思ってくれないというのは寂しいものだ。そして自分のことを思い出して欲しい。そんな矛盾した寂しい無神論者の僕。

 無神論者を気取っている僕だが、超自然的な奇跡ともいえるような現象のことは信じている。ほとんどありえないのだけれど(実際には確率的にもわずかながらありえる)、実際に自分の身に降りかかる奇跡。そのような現象の奥に潜むものが神というのなら、僕は無神論者ではないのかもしれない。でも、宗教の言う神は、認めたくはない。ただ、自分と繋がりのある人が亡くなったという事実には、その人に敬意を表すという意味で墓参りにも行くし、その人にお祈りすることで、自らを見つめ直す機会になればいいと思う。
 
 おそらく墓参りの時に限らず、祈るという行為は自分のために行っているのだと思う。誰かを思い起こして祈る時でも、最終的には自分を救って欲しいだとか、願いが叶うようにだとか、結局は利己的な内容を含んだものが祈りなのだと思う。そして祈りという自己暗示によって、物事も好転することがあるのではないか。

 墓を作り、そこにお参りするという行為も、自分のためだということになるだろう。そして、そのように自分を見つめなおすことが、先祖様も望んでいることだと思って、また、そんな気持ちでも行うことにも意味があると思って、これからも墓参りに行くのだろう。

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