他人事

2007年8月15日 日々の暮らし
 今日また総合病院の皮膚科に診察してもらいに行った。医者の先生が傷口を見て言うには、顔に多少の傷跡が残ることはあるかもしれないとのこと。それを聞いて普通の人がどういう反応を示すかは分からないが、自分ではどうにも出来ないので「そうですか…」と相槌を打って帰ってくるだけだった。なんとなく他人事のような感覚だった。

 自分の性向として、特に忌みごとに関しては、自分自身のものよりも他の人から聞いたことの方が心にずしりと来るような気がする。怪我なども、自分が傷つくよりも、周りの人が怪我してそれを見せられる方がよほど痛いと感じてしまう。特に皮膚がめくりあがったり、血が流れるのを見せ付けられると、どうにもできない恐怖感が湧き上がってきてしまう。一方、自分の怪我などは我慢すればいいだけの話で、それでひぃひぃ言ったところで仕様もないし、その必要もないのだ。

 たぶんこれは痛みを実感できるかどうかの問題なのだと思う。自分で痛みを実感できる時には、痛みはそれ以上でもそれ以下でもない。よって我慢すれば何とかなる。しかし、他人の痛みは、時に自分自身のものを超えてしまう。視覚により感知される痛みの感覚には際限がない。全身に痺れるような電流が流れてしまい、痛みは自分自身のもの以上に知覚され、想像力がそれを掻き立ててしまう。他人事は自分自身に起きている問題以上の懸案事項になってしまうのだ。

 この傾向は実生活にも当てはまることがある。自分のことよりも他人事を優先させて動いてしまった経験は誰にでもあると思う。自分も忙しいのに、頼まれたから仕方なくそっちを優先する。なんとなく引き受けてしまうならまだしも、断りきれずに引き受けてしまうとなるとかなり重症だろう。それが続くと善意で引き受けていたはずが、ただの使いやすい人間に陥ってしまうことになる。

 他人の痛みが分かるがために自分の痛みに鈍感になってしまう。個人の主義にもよるが、あくまで、他人は他人。自分で他人の傷口を広げることなど普通は出来ないし、しないのだから、怪我した時ぐらいは、自分の傷口の面倒だけを見ていればいいのだ。周りの人の傷口まで面倒を診れるのはよほど殊勝な人だろう。弱者の面倒を見れるのは強者のみなのだから、弱い自分でいる時くらい自分のことだけに集中したい。ただ、いつかは誰かのために働けることを祈りながら。

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