先日、我が家で飼っていた金魚二匹のうちの一匹が亡くなっていた。「亡くなっていた」というのは前日までその兆候がなかったからだ。いつ頃から飼い始めたかも忘れるほど我が家に馴染んでおり、推定ではあるが、最低でも五年は生きていたのではないかと思われる。金魚にしてはかなりの長生きだと思うので、大往生といっても過言ではないだろう。
餌やり係を父から受け継いで以降、自分の金魚への愛着は、金魚の優雅な泳ぎから受ける安らぎと同程度に深まっていった。父がすでに「マポリン」と名付けていたので、二匹のうちどちらが「マポリン」なのか分からずとも、家族に癒しを与える存在であったことは間違いないだろう。
年を経るごとに、尾が煌びやかに伸びていき美しくなっていたものの、晩年には黒目が白くなってはいた。それでも餌をあげる時には可愛らしく水面に顔を出すのが印象的だった。
生き物を飼うということは、それが何であれ、命に責任を持たなくてはならない。少なくとも自分は餌を絶え間なくあげるという最低限の行為でそれを示したつもりだ。そして、「マポリン」の死に面することで、どのような生き物にも命に期限があることを思い知らされた。生きるということの大切さ、そして絶対的な死の存在を再認識した「マポリン」の大往生だった。
餌やり係を父から受け継いで以降、自分の金魚への愛着は、金魚の優雅な泳ぎから受ける安らぎと同程度に深まっていった。父がすでに「マポリン」と名付けていたので、二匹のうちどちらが「マポリン」なのか分からずとも、家族に癒しを与える存在であったことは間違いないだろう。
年を経るごとに、尾が煌びやかに伸びていき美しくなっていたものの、晩年には黒目が白くなってはいた。それでも餌をあげる時には可愛らしく水面に顔を出すのが印象的だった。
生き物を飼うということは、それが何であれ、命に責任を持たなくてはならない。少なくとも自分は餌を絶え間なくあげるという最低限の行為でそれを示したつもりだ。そして、「マポリン」の死に面することで、どのような生き物にも命に期限があることを思い知らされた。生きるということの大切さ、そして絶対的な死の存在を再認識した「マポリン」の大往生だった。
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