物を書くという行為は、自分が情報を発信しているということで、主体的行為といえるだろう。
だが、その執筆物は読まれないことには、無意味になってしまう。つまり、人に読まれることを想定しなくてはならないため、書く段階から客体を意識して書かなくてはならないという、矛盾した状況に陥ってしまう。書くのは、本来的には自由な行為のはずだからだ。
ブログであっても、販売物であっても、書くことは読み手を意識した行為になる。必然的に、書きたくても書けないことも生じてくる。
少なくとも社会生活がそうであるように、何事も客体を意識して行動しなくてはならない。そうしなくては、排斥されるのは自分であるからだ。
でも、僕は可能な限り、自由を満喫したい。あくまで主体的に。
だが、その執筆物は読まれないことには、無意味になってしまう。つまり、人に読まれることを想定しなくてはならないため、書く段階から客体を意識して書かなくてはならないという、矛盾した状況に陥ってしまう。書くのは、本来的には自由な行為のはずだからだ。
ブログであっても、販売物であっても、書くことは読み手を意識した行為になる。必然的に、書きたくても書けないことも生じてくる。
少なくとも社会生活がそうであるように、何事も客体を意識して行動しなくてはならない。そうしなくては、排斥されるのは自分であるからだ。
でも、僕は可能な限り、自由を満喫したい。あくまで主体的に。
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