梅雨明けとともに充電完了?(@@;)¬
2004年7月13日 思うところ 今日は予定通り丸々オフだった。とはいっても、遠出しないというだけで、図書館行ったり、TU○AYA行ったり、本屋巡ったり、買い物したり……案外、動いてるのね(ο´Å`ο) まあ、やりたいことやってるし、車だったから気が楽だったんだな。
ちなみに、最近車の中ではもっぱらスピッツを聴いています。なぜかというと、うちの車はオーディオがテープのみだから。高校時代につくったテープをいまだに聴いているのです。それにしても、心に響きますわぁ。美しいメロディーに響く正宗さんの高音と心に染みる優しさ溢れた歌詞。特に彼らの歌う「神様」という言葉は意味が深い気がする。無神論者の僕だけれど、彼らの歌う神様なら信じたいです♪
さて、今日は最近気になるテーマということで、「大学と学問」ということについて、ちょいと書いてみたいと思います。
僕が学籍を置いている大学は、この4月に独立法人行政化(いわゆる独法化)のもとに、国立法人となりました。仙台の学友に会うたびにこの話題を論じるのですが、みんな一様に独法化には否定的な考えを示します。彼らの言うところをまとめると
?大学はあくまで「学問の府」でなくてはならない
?利益重視の体制では、基礎研究を疎かにしなければならず、長期的に 見て利益(国益)になるとは考えづらい
?成果主義を学問に導入することは、その本質上矛盾しており、学問の 切捨てに繋がる(特に文系学部・理系の基礎研究を重視する、理学部
など)
ということだったと思います。では、順次僕なりに消化した考えを加えていきたいと思います。
?というのは、「純粋な学問は大学という場でしかできない」ということです。企業集団はあくまでも利益を追求する事で、社会に価値を還元するというサイクルを持ってはいます。しかし、某友人に言わせると、それは社会の拡大再生産でしかない、ということらしいのです。彼は文学部なのですが、教授に言われた言葉が強く印象に残っているらしく、耳にたこが出来る程、酒の席で聞かされているのが次のような台詞です。
「『学術』って言う言葉あるじゃん?教授に言わせるとさ、理系の奴等がやっているのは、純粋な学問ではなく、『術』にすぎないってことだって。あいつらのやっていることは、確かにその時の最先端を行っているし、目に見えて社会を変える効果はもっているけれど、結局は代わりがいくらでもいるんだよ。たとえ、彼が生み出したものが最先端であっても一年先には確実に塗り替えられる運命のあるじゃん。理系の研究室見てみ。企業との合同研究やら、9時〜18時の出勤制だとかってサラリーマンそのまま。うちら文系はというと、確かに世の中を変える力は小さいかもしれないけれど、最高の個人を生み出す場にはなっている。『学』なんだよ、俺がやりたいのは。俺が書く論文は何千年経っても、誰も塗り変えることが出来ない固有のものとして永久に残るんだぜ。どっちが上かは推して知るべしだよな。」
何度聞いても、突込みどころ満載のように思うのですが、確かにいくつかの真理はついているんじゃないでしょうか。学問の本質は、利益を度外視した純粋なところにあるということは間違いないな…、なんて思います。
?に関しては、「国際競争力の面で長期的なスパンで見るとマイナスになるのではないか」ということらしいです。理系学部の中でも、研究の対象が、大きく分けて基礎研究と応用研究の分野に分かれるということを、某工学部の友人に聞きました。彼は、自分のやっている学問に嫌気がさして、広告代理店での活躍を決意し、今でも就職活動を懸命にがんばっています。うちの大学で工学部といったら、将来的な年収は間違いなく八桁を超えるというのに、あえてその道を選んでいる熱き漢です。彼の言葉に驚愕したのですが、最新の科学技術というのは、体系だった基礎研究の上に築かれているものではなくて、実験を繰り返した経験則上の理論に基づいて成り立っているということらしいのです。つまり、「やってみたらうまくいったから、これでいいんじゃねぇ?」的な発想により、社会の発展は可能となっているらしいのです。僕の持論として、「この世は虚構だ」という考え方があるのですが、僕の周りの友人は、大体の点においてこの考えに賛同してくれます。海外の学問組織がどうなっているかは知りませんが、絶対にそのような研究姿勢がしっぺ返しを喰らう時がくる気がしてなりません。
?は勘のいい人ならもう分かってもらえると思います。大学が、学問組織の中で、唯一(ただし、国家に保護されている恩恵を受けて利益拠出に奔走しなくてよい大学)社会的にそれほど重要だと思われないような、純粋な知的好奇心にもとづく学問をする場を提供しているはずなのです。それが、独法化により崩れようとしています。社会を回すだけの研究(必ずしもそれが悪ではないと思うけれど)のみが重視されてしまい、社会の土台を固める研究(これは、短期的な成果が非常に見づらいことが特徴的)が排除されていくことは、世の中の趨勢かもしれません。でも、本当にこれでいいのでしょうか?
今の時点で、その弊害はまだ現れていませんが、教育界の見かけだけのゆとり教育や、政界のくだらないアピールが前面に押し出される選挙活動を眺めていると、本当の構造改革がなんなのかを考えさせられます。
ちなみに、最近車の中ではもっぱらスピッツを聴いています。なぜかというと、うちの車はオーディオがテープのみだから。高校時代につくったテープをいまだに聴いているのです。それにしても、心に響きますわぁ。美しいメロディーに響く正宗さんの高音と心に染みる優しさ溢れた歌詞。特に彼らの歌う「神様」という言葉は意味が深い気がする。無神論者の僕だけれど、彼らの歌う神様なら信じたいです♪
さて、今日は最近気になるテーマということで、「大学と学問」ということについて、ちょいと書いてみたいと思います。
僕が学籍を置いている大学は、この4月に独立法人行政化(いわゆる独法化)のもとに、国立法人となりました。仙台の学友に会うたびにこの話題を論じるのですが、みんな一様に独法化には否定的な考えを示します。彼らの言うところをまとめると
?大学はあくまで「学問の府」でなくてはならない
?利益重視の体制では、基礎研究を疎かにしなければならず、長期的に 見て利益(国益)になるとは考えづらい
?成果主義を学問に導入することは、その本質上矛盾しており、学問の 切捨てに繋がる(特に文系学部・理系の基礎研究を重視する、理学部
など)
ということだったと思います。では、順次僕なりに消化した考えを加えていきたいと思います。
?というのは、「純粋な学問は大学という場でしかできない」ということです。企業集団はあくまでも利益を追求する事で、社会に価値を還元するというサイクルを持ってはいます。しかし、某友人に言わせると、それは社会の拡大再生産でしかない、ということらしいのです。彼は文学部なのですが、教授に言われた言葉が強く印象に残っているらしく、耳にたこが出来る程、酒の席で聞かされているのが次のような台詞です。
「『学術』って言う言葉あるじゃん?教授に言わせるとさ、理系の奴等がやっているのは、純粋な学問ではなく、『術』にすぎないってことだって。あいつらのやっていることは、確かにその時の最先端を行っているし、目に見えて社会を変える効果はもっているけれど、結局は代わりがいくらでもいるんだよ。たとえ、彼が生み出したものが最先端であっても一年先には確実に塗り替えられる運命のあるじゃん。理系の研究室見てみ。企業との合同研究やら、9時〜18時の出勤制だとかってサラリーマンそのまま。うちら文系はというと、確かに世の中を変える力は小さいかもしれないけれど、最高の個人を生み出す場にはなっている。『学』なんだよ、俺がやりたいのは。俺が書く論文は何千年経っても、誰も塗り変えることが出来ない固有のものとして永久に残るんだぜ。どっちが上かは推して知るべしだよな。」
何度聞いても、突込みどころ満載のように思うのですが、確かにいくつかの真理はついているんじゃないでしょうか。学問の本質は、利益を度外視した純粋なところにあるということは間違いないな…、なんて思います。
?に関しては、「国際競争力の面で長期的なスパンで見るとマイナスになるのではないか」ということらしいです。理系学部の中でも、研究の対象が、大きく分けて基礎研究と応用研究の分野に分かれるということを、某工学部の友人に聞きました。彼は、自分のやっている学問に嫌気がさして、広告代理店での活躍を決意し、今でも就職活動を懸命にがんばっています。うちの大学で工学部といったら、将来的な年収は間違いなく八桁を超えるというのに、あえてその道を選んでいる熱き漢です。彼の言葉に驚愕したのですが、最新の科学技術というのは、体系だった基礎研究の上に築かれているものではなくて、実験を繰り返した経験則上の理論に基づいて成り立っているということらしいのです。つまり、「やってみたらうまくいったから、これでいいんじゃねぇ?」的な発想により、社会の発展は可能となっているらしいのです。僕の持論として、「この世は虚構だ」という考え方があるのですが、僕の周りの友人は、大体の点においてこの考えに賛同してくれます。海外の学問組織がどうなっているかは知りませんが、絶対にそのような研究姿勢がしっぺ返しを喰らう時がくる気がしてなりません。
?は勘のいい人ならもう分かってもらえると思います。大学が、学問組織の中で、唯一(ただし、国家に保護されている恩恵を受けて利益拠出に奔走しなくてよい大学)社会的にそれほど重要だと思われないような、純粋な知的好奇心にもとづく学問をする場を提供しているはずなのです。それが、独法化により崩れようとしています。社会を回すだけの研究(必ずしもそれが悪ではないと思うけれど)のみが重視されてしまい、社会の土台を固める研究(これは、短期的な成果が非常に見づらいことが特徴的)が排除されていくことは、世の中の趨勢かもしれません。でも、本当にこれでいいのでしょうか?
今の時点で、その弊害はまだ現れていませんが、教育界の見かけだけのゆとり教育や、政界のくだらないアピールが前面に押し出される選挙活動を眺めていると、本当の構造改革がなんなのかを考えさせられます。
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