クールダウンのつもりが‥
2004年7月11日 思うところ 名古屋で一生の仲間となるだろう人たちと出会い、かけがえのない思い出を刻むことが出来た満足感とはうらはらに、やはり体には多少の疲労感が澱んでいるらしい。舌がはれ上がって、塩分を取るのが辛い‥。まあこれくらいなら何にも差し支えないので、帰京早々(って言っても埼玉だけど)、高校時代からの悪友(!?)と遊ぶために大宮へと出向いた。いまだに連絡取り合って二人だけで遊んでいる位の仲なので、全く気の置けない友だ。ってか、高校の友達でまだ繋がってるのは彼だけだなぁ。そのうち高校時代の同窓会でもあるんだろうか‥。でも男子校の同窓会ってねぇ。華はまずないだろうし、馬鹿ばっかだから大変なことになるんだろうな、きっと。(><)
しかし、うちらの大宮での行動パターンはいつも同じだ。よくお互い飽きずに続いてると思う。そのパターンとは
昼前に集合⇒カラオケで熱唱⇒ブックオフでネタ的な買い物⇒ロフトに入り、ジュンク堂を中心にぶらぶら⇒ゲーセンで銃撃戦⇒ファストフード店でお茶⇒ば〜い(´ι`)
てなもんです。多少のオプションはあるにせよ、ほとんど変わりません。たまにお互いイラついてるときもあるにはあるけれど、けんかした事はない。正直、高校の時は、自分と彼を全く別タイプの人間だと思ってた。でも、案外似てるのかも、って最近思い始めてます。
彼と遊んで、いろいろと考えるところがありました。
一番気にかかったのは「学歴」ということについてです。彼は社会人でW大卒のSE、僕は1浪1留の東北地方の学生。二人とも昔の観念で言うところの「エリート」ということにはなると思います。ただ、日本では「学歴」が本当に必要なのか‥。大いに疑問です。確かに、人を測る指標としては便利です。「彼はT大だよ」っていう発言にはみんな一様に「すごいねぇ」というでしょう。学閥が企業内にあるところも珍しくはないし、それらの大体がいわゆる一流大学のものです。
でも、そういうもんじゃない気がしてます。塾で中学生を指導していた時、「なぜ受験をするのか?」ということについて、自分が受験生だった当時より真剣に考えてみました。今のところの結論は、「いい友達に囲まれるため」というものです。必ずしも偏差値の低い高校の人のレベルが低いとは思っていませんが、諺にあるとおり「朱に交われば赤くなる」だということは否定できない気がします。なんだかんだいって、勉強している人は考えている人だと思うのです。そして、一日に他の人より一つでも多くのことを考えれば、一年では365の差がついてしまいます。これが、人間の厚みの差に繋がるんじゃないでしょうか?
つまり僕が言いたいのは、必ずしも学歴というラベルが必要なわけではないということなのです。「考えているかどうか」ということだと思うのです。きっかけが、スポーツをする事でも、アートを表現する事でも、自然と親しむ事でもなんでもいいのです。ただ、勉強だけは、多少の向き不向きはあるにせよ、天性の才能に関わらずほぼ万人がチャレンジしていけるものだというだけのことです。自分の頭と経験で物事を理解するということは、簡単なようで難しい、としみじみと思う事がよくあります。そして、人を正しく評価するというのは、不可能に近いものがあります。「学歴制度」はあると楽なんでしょう。
ちなみに生徒には次のように説明するようにしています。
「自分が受験期の時には、ただ流されて、なんとなく漠然とした目標を持ってただけ。その日暮しみたいなもんだった。べつにいい大学に行きたいなんて思わなかったけど、周りががんばってたから自分も流されてがんばった。今の自分にはそういう友達が財産だったんだと思える。君らもできるだけいい高校に入って、いい友達を見つけてほしい。そして何か間違って偉くなったら、『たな先生のおかげです』といってくれ(笑)」
かなり脚色入ってるけれど、生徒はこの話をすると必ず真剣に聞いてくれます。
学歴は、単なる勉強した証であって、人間性や優秀さとは関係がないということを、自分は言いたいのだろうと思います。他の人には、なることができないので、自分の人生しか生きれないのですが、「負けたくない」という気持ちが成長に繋がるのは確かなようです。
しかし、うちらの大宮での行動パターンはいつも同じだ。よくお互い飽きずに続いてると思う。そのパターンとは
昼前に集合⇒カラオケで熱唱⇒ブックオフでネタ的な買い物⇒ロフトに入り、ジュンク堂を中心にぶらぶら⇒ゲーセンで銃撃戦⇒ファストフード店でお茶⇒ば〜い(´ι`)
てなもんです。多少のオプションはあるにせよ、ほとんど変わりません。たまにお互いイラついてるときもあるにはあるけれど、けんかした事はない。正直、高校の時は、自分と彼を全く別タイプの人間だと思ってた。でも、案外似てるのかも、って最近思い始めてます。
彼と遊んで、いろいろと考えるところがありました。
一番気にかかったのは「学歴」ということについてです。彼は社会人でW大卒のSE、僕は1浪1留の東北地方の学生。二人とも昔の観念で言うところの「エリート」ということにはなると思います。ただ、日本では「学歴」が本当に必要なのか‥。大いに疑問です。確かに、人を測る指標としては便利です。「彼はT大だよ」っていう発言にはみんな一様に「すごいねぇ」というでしょう。学閥が企業内にあるところも珍しくはないし、それらの大体がいわゆる一流大学のものです。
でも、そういうもんじゃない気がしてます。塾で中学生を指導していた時、「なぜ受験をするのか?」ということについて、自分が受験生だった当時より真剣に考えてみました。今のところの結論は、「いい友達に囲まれるため」というものです。必ずしも偏差値の低い高校の人のレベルが低いとは思っていませんが、諺にあるとおり「朱に交われば赤くなる」だということは否定できない気がします。なんだかんだいって、勉強している人は考えている人だと思うのです。そして、一日に他の人より一つでも多くのことを考えれば、一年では365の差がついてしまいます。これが、人間の厚みの差に繋がるんじゃないでしょうか?
つまり僕が言いたいのは、必ずしも学歴というラベルが必要なわけではないということなのです。「考えているかどうか」ということだと思うのです。きっかけが、スポーツをする事でも、アートを表現する事でも、自然と親しむ事でもなんでもいいのです。ただ、勉強だけは、多少の向き不向きはあるにせよ、天性の才能に関わらずほぼ万人がチャレンジしていけるものだというだけのことです。自分の頭と経験で物事を理解するということは、簡単なようで難しい、としみじみと思う事がよくあります。そして、人を正しく評価するというのは、不可能に近いものがあります。「学歴制度」はあると楽なんでしょう。
ちなみに生徒には次のように説明するようにしています。
「自分が受験期の時には、ただ流されて、なんとなく漠然とした目標を持ってただけ。その日暮しみたいなもんだった。べつにいい大学に行きたいなんて思わなかったけど、周りががんばってたから自分も流されてがんばった。今の自分にはそういう友達が財産だったんだと思える。君らもできるだけいい高校に入って、いい友達を見つけてほしい。そして何か間違って偉くなったら、『たな先生のおかげです』といってくれ(笑)」
かなり脚色入ってるけれど、生徒はこの話をすると必ず真剣に聞いてくれます。
学歴は、単なる勉強した証であって、人間性や優秀さとは関係がないということを、自分は言いたいのだろうと思います。他の人には、なることができないので、自分の人生しか生きれないのですが、「負けたくない」という気持ちが成長に繋がるのは確かなようです。
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