たまらなかった。

ただ原作を読んだ作品がどのように映画になるのかを観たかったので、しかも、大体の映画は原作を超えることはないと聞かされていたので、日経新聞の映画評欄の評価が☆4つだったという若干の期待感だけを持っていた。

観に行くことになって、前半部分だけ原作を読み返していったので、所々にそれと符合する台詞や情景が出てくると胸が高鳴ったが、単に「原作を読んだから」という種類の高鳴りでは終わらなかった。当然、ロケ地が仙台だと言うこともあるが、それだけでもない。

配役もまた絶妙だった。僕が監督だったとしても、これ以上のキャスティングはできないだろう(もっとも素人なので当たり前だけれど)。良かったのは泉水(加瀬亮)と春(岡田将生)の兄弟とその父(小日向文世)、そしてもう一人の父(渡部篤郎)。本当にいい味を出していた。

原作にあったシーンは、それが想像力ではなく、視覚と聴覚を通して直に入ってくることで新たな感動を起こしてくれたし、原作になかった(と思われる)シーンも決して原作のイメージを壊すことなく、自然な『重力ピエロ』の一部分になっていた。

この映画は見ておいて損した気分はまったくなかった。多少、伊坂ワールド的なスタイリッシュな台詞はあるが、それでも何か大切なものを心に落としてくれる一作だった。重力に負けずにピエロがふわっと浮かぶような悲しさと温かさを含んだ感覚が鋭く突き刺さった。ここ数年で劇場に見に行った中では最高の一作だ。
昨日、あまりに体を動かしたくなって、市の運営するトレーニングルームのある施設に赴いた。初めて利用する人は講習を受けなくてはならないらしく、予め用意するように言われたもの(ウェア、屋内履き、水分補給できるもの、タオル)も持参しての参加だった。説明自体は前に同じような施設を利用したことがあったので何の疑問もなくスルーしたのだが、その前に行っていたトレーニングルームより我が市のそれは充実しているように思えた。

何がいいかというと
①器具の数と種類が多い
②トレーナーの人数が多い
③器具とその説明書き、区分けがしっかりされている
④基本的に自家発電
といったところだろうか。

そしてどれだけいても400円で過ごせるらしい。個人的には1時間くらいいれば十分な感じになるので、その半額でお願いしたいところだが、まぁ、分相応と言ったところなのだろうか。

とりあえず自転車漕いで、走って、筋トレしてで1ターン目が終わると大体1時間経つ。本当なら2ターン目も出来ればいいのだけれど、それはまだ体力的に自信がないので、次回以降の課題にしようと思う。それにしても身近にあんなにいい施設があったとは。見落としは意外に多い。
どんなにつらい状況でも、その場を明るく捉えられればすべてはコメディーになると思う。

前に車のバッテリーを上げてしまい、ウンともスンとも言わない状態になってしまったことがあった。僕は、人の命にかかわるようなことは、まだ笑えるほど人間が出来ていないが、バッテリー上がりくらいの状況ならばむしろその苦境を楽しむことは出来る。とりあえず某ロードサービス会社に電話して来てもらい、手際よくバッテリーの充電をしてもらったのだが、その間は1時間もかからなかったし、それになにより、「バッテリーの充電ってこうやるのか!」という新しい光景を目の当たりに出来たことが、僕の心を浮き立たせた。一時間を無駄にしたという思いよりは、新しい経験を積めたという喜びのほうが大きかったのだ。

ものも捉えようで全く違う。テレビに久しぶりに出ていた歌手が年を重ねた様子を見てどう思うか。母は「老けたわね」と言っていたのだが、僕は「大人びた」と感じた。また、解けない問題を「出来ない」と突っぱねるよりは、「どうやれば解けるようになるんだろう」という未来へ向けた想いを持つほうがはるかに素晴らしいことだと思う。

どんなマイナスな言葉でも捉えようによってはプラスに変わる。それは感性の違いによって生じる差異なのだが、マイナスの言葉を吐きつづける人は、少なくとも僕はかなり苦手だ。こっちまで気分が暗くなってしまう。それにマイナスな言葉は結局吐いた人自身に撥ね返ってくるのではないか。いつかその人が悲劇的言葉を吐きかけた人と同じような境遇に陥った時に、その言葉の悲しさが身に染みて分かることになるのではないかと思う。

だから僕は、悲しみではなくコメディーで全てのものを包んでいきたいなと思っている。喜びの声もきっと人から人へと伝染するものだと信じていたい。すべてが喜びの色に染まるあの光景をもう一度感じたいと心から思う。結局、喜びは自分ひとりの絶対的なもので万人の喜びなどというものがないものは分かっているけれど、それでも僕の中の小さな世界はコメディーを求めてしまうのだ。
高校時代の国語でこんな話を読んだ記憶がある。

『筆者が自転車だかバイクで近くの駅から自宅まで帰ってくる。ただし、それでは頭を使っているだけで、 体の疲労が脳の疲労に追いつかないため、結局は帰宅してから小一時間歩かなくてはならなくなる。』

正確な描写ではないがこんな感じだ。
だったら、最初っから駅から歩いて帰ってくればいいじゃないか、と当時は思いっきりその滑稽さを侮蔑していたが、実際に自分がそういう立場に立ってみると共感できてしまうから不思議だ。

僕の場合は頭の方のテンションが上がりつづけて、それで体も絶好調だから脳も体も酷使することになる。体のほうの疲れは比較的早く和らぐのだが、脳の方はそう簡単にはいかず、上がりっぱなしのテンションはかなりのダメージを脳に残す。いまだに普段見る世界とは違う、ぼんやりとした「現実」の中にいるのは、きっとそういう理由なのではないかと想像してみる。

ただ、いつもの「現実」と違うのは、僕にも少しだけれど守るべきものが出来て、それを壊さないのに精一杯だからだろう。そして守ってくれる人がいる。もしくは単に加齢とともに経験値が増えるのに反比例して、感覚の鋭さが和らいだからか。

もっとも終わらない旅がないように、僕のこの小旅行もあとわずかでトンネルを抜けるところまで来ている。今回の小旅行は、自分でも驚くほど終点にたどり着いたときの爽快感への期待で溢れている。「次はどこに旅行しようか」なんてことが思い浮かぶほどにだ。
昔から使い古された漫画的セリフ。

「今のあいつなら針の落ちる音さえも聞き分けるぜっ」

当時は「んなバカな」と一笑に付していたけれど、今ならそういう精神状態も分からないでもない。少なくとも僕は鼻は効くらしい。

蠢く心

2009年6月10日 思うところ
どうにもならずに一人佇むことがある。誰かに頼ればいいと分かっていても、そうできぬ何かが自分の中には宿っている。結局どうしたいのかが分からず、どうにも出来ぬ自分に対して、更に苛立ちは募るばかりだ。
でも、偶然にもそんな時に、向こう岸から手を差し伸べてくれる人がいる。その幸運に感謝しながら、僕は明日を生きようと思えるのかもしれない。
一年近く前に読んだ本のレビューを書くのもどうかと思う。記憶もあいまいだし、内容もあまり残っていない。

それでも、この一冊はツボだった。確かに主人公の虚像が次第に明らかにされていく点や、心温まる脇役達との交流、見事な伏線と言った素晴らしい点はたくさんある。しかし、僕が言いたいのはそんなところではない。

舞台が仙台なのだ。しかも、僕が過ごした街の風景を思い起こさせる場面がわんさか出てくる。
「爆破事件が起こったのはあの路地で・・・」
「おしゃべりしていたファーストフード店はきっとあそこで・・・」
「花火工場はあの辺で・・・」
「逃げ回った国道は僕の通ったあの通りで・・・」
「クライマックスのマンホールはあの公園のあそこだろうし・・・」
「出てくる川のあたりは大学の裏側で・・・」
と一人勝手に想像を膨らませては郷愁に浸っていた。

これだから伊坂幸太郎はやめられないのだ。
とある友人が左手小指を骨折して、手術のため入院し、昨日退院したとの報告を受けた。かなり精神的にも思うところがあったらしいが、退院後、気分転換のために寄った床屋で店主から天の言葉をもらったとこぼした。

「見えないものが一番怖いんだよな」

と。

まさにそのとおりだと思った。
この前、珍しく一家団欒の状況が生まれて、片側一車線の県道を車で走っていると、ナンバープレートを確認できないように折り曲げた、二台の原付が車の横をギリギリ抜けていったことがあった。それを見て家族であれやこれや言うことには
「カッコつけたいんだよ」
「警察に捕まえてくれとアピールしてるんだね」
「親に何かを訴えたいのかしら」
「ああいう若い時も必要なんだよな」
とさ。

彼らが、何を思ってナンバープレートを折っているのかは定かではないし、それに対して何か批判するのは個人的に好きではないので置いておくとして、とにかく自分がもし彼らの立場だったらということを想像してみようと思う。そもそも自分は「法に反する後ろめたいことはするな」という教えを受けて育ってきたので、そんな大それたことをしようとも思わないだろうが、もしそれでもそうせざるを得ない理由があったとしたなら、それはきっと「認めてもらいたいから」だと思う。

「自分は出来る人間なのだ」と。「自分の存在はこの程度ではない」と。「もっと自分を見てくれ」と。

人は常に誰かに認めてもらうことを欲しているのだと思う。誰でもいいのだ。だれでもいいからとにかく無条件で自分を認めて、できれば愛してくれる存在が欲しいのだと思う。それが、一般的には親であり、家族であり、恋人であったりする。

ただ、人が最も認めてもらうべき存在は、僕が思うに自分自身なのではないかと思う。自分さえ正しいと思っていれば、自分が認めてさえいれば、人は折れずに生きていける。それが他人に認めてもらう場合に比して、道徳的・論理的に正しいかどうかは問わない。とにかく自分が自分を認められなくなった時に、人は絶望を味わうのではないかと思う。他人に認めてもらえない場合は屈折した感情を抱くのであろうが。

だから、自分と言う存在は時に不可解だ。よく分からないところで自らを制御し、放出しようとする。世の中で一番理解できそうな自分自身さえも理解できないのならば、他人に頼って何かを得ようということは空恐ろしくさえ感じる。

でも、それだからこそ楽しいのだ。何も分からないからこそ楽しい。それは何かを分かる可能性が無限に広がっていることを意味しているからだ。その無限の可能性に僕はきっと魅入られている。だから今を生き、明日を生きたいのだ。
最近、忘れ物が多い。この前なんて、財布にお金を入れるのを忘れたし、昨日は停車中にエアコンを切るのを忘れていて、バッテリーを上げてしまい、某ロードサービース業者の方に来てもらった。やはり、何かに一生懸命になっている時や、その後はとにかく忘れ物が多くなるらしい。

この前の日曜に従妹(5歳)が来て、嵐のようにうちを賑やかにして去っていったのだが、その嵐は僕に様々なことを思い出させてくれた。「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉の意味や食事の時のマナー、嬉しいと感じたことを相手に伝える方法や本当に恥ずべき言動など本当に色々なことを僕の心に残していった。僕が幼い頃に置いてきた忘れ物の数々だ。

しかし、何より一番大きい忘れ物は自分の記憶に対するそれだと思う。学校時代は、分からなかったことや知らなかったことを新たに自分のものにすることで、多くの感動を手にしてきたはずだ。そして、自分が幼い当時に感じていた疑問の数々は、今冷静になって見つめ直せば、その大半は答えが出るはずだが、その疑問の存在自体を忘れてしまっているため、普段の生活を無感動のまま過ごさねばなくなる。大人になると新たに手にするものが極端に少なくなるために、過ぎる時間の速さも子供時代に比べて増すのだと思う。感動は人の時間を豊かにする。

しかし、僕は思う。大人になったからこそ新たに手に出来る感動があるのではないかと。基礎学力や多くの知識を積み重ねた今だからこそ、子どもの頃に深く疑問に感じていた「何か」を突き詰めることが出来るのではないかと。

大人の感じる疑問は、子どものそれ以上に素朴で、ある意味単純なものかもしれない。なぜなら、難しい公式や定義を必要とせず、いわゆる「勉強」とは違う、「~ってなんだろう?」的な曖昧な疑問がほとんどだからだ。だが、それだけに個々人で答えの出し方は全く違うし、何回も答えを書き直すことが必要となる。力を手にした今こそ、大人としての本当の見せ場が始まるのだと思う。とにかく、僕は一つでも多くの「何か」を覗いてみたい。
僕は基本的に占いた信じない方だ。
だが、先日いとこ(といっても5歳児)がもってきていた子供向け雑誌の最終ページにに載っていた占いを見て、はっとさせられた。

『しし座

何か忘れ物をしたり、持ち物をなくしてしまったり、小さなアクシデントが起こりそうなので気をつけてね』

とさ。これが小さなアクシデントなら、大きなアクシデントに見舞われる人はいったいどんなになってしまうのだろう、とちょこっと思った。

ちなみに父はみずがめ座なのだがその欄には

『わがままな発言や態度に注意!だれかをいやな気持ちにさせてしまうよ・・・。まわりの空気をよく読んでね☆』

とあった。

あなどれぬ、子ども向けメディア。
前に祖母と二人暮らししていた時に、よく言われたことがある。
僕が大学に行こうとすると
「しっかり勉強してこいよ~」
僕がバイトに出かけようとすると
「勉強は大事だからな~」
僕が夜遊びに22時頃家を出ようとすると
「それも勉強だ~」
といった感じだった。さすがに夜遊びは勉強じゃないだろうと苦笑いしながらも、明るく送り出してもらっていた。

今になって、その祖母の言葉の意味が深く胸に突き刺さっている。「何事も勉強だ」という教訓は、生きる上でまさに真理をついた言葉だ。どんな些細なことにも新たな発見は隠されているし、普段見逃しているようなものにも喜びは溢れている。小学校さえろくに通わせてもらえなかった祖母ではあったが、今の僕にはその「勉強」を出来なかった祖母の言葉の重みに耐えられるかどうかが試されているのだと思う。

「成長期」という時期が人間にはあるという。育って大きくなることが著しい時をそう呼ぶらしい。「思春期」は期間が限定されてしまうものらしいが、「成長期」に限りはないのではないか、と僕は思っている。少なくとも当人が限界を定めてしまうまでは。

だから僕は何が起ころうとも諦めることだけはしないでおこうと思う。それが、僕を今日まで育ててくれた大切な人たちへの義務であり、何より僕自身の楽しみであるからだ。きっと「勉強」をやめた時点で僕の未来は暗く閉ざされることになるだろう。それだけはご免こうむりたい。

アホ

2009年5月31日 日々の暮らし
ちょっと前に、ある仕事のリーダー的存在の人に叱られたことがある。原因は仕事上のミスなのだけれど、その作業の責任者はなぜか僕ということになっており、
「なんでこんなことしたんだ!」
と軽く怒鳴られた。

実はそのミスは僕がやったものではなく、たまたま作業を任せていた新人さんが犯してしまったもので、本来なら僕ではなく彼が叱られるべきだ、と僕は瞬時に思った。しかもミスを犯した彼も僕が叱られた現場に居合わせたのだ。

しかし、
「それは・・・」
の声を僕は飲み込んでしまった。リーダーの目が笑っていたからである。そこで僕は「すみませんでしたぁ」と謝り、一件落着した。もし謝ってしなかったらどうだったろうと謝りながら思った。

あえてする必要もないと思うが、僕の好意的な解釈によるとリーダーはすべてを分かっていて僕を叱ったのではないかと思う。ミスした新人の気持ち、僕の性格、そして彼自身の立場。すべてを分かって僕を叱ったのではないか。ちなみに後日談だが、ミスをした新人さんはその翌日にリーダーに
「自分がやったと思うんですよ」
と告白していた。リーダーはやはり、「もういい」というような表情をしていた。

多分、僕はアホなのだと思う。必ず、自分の感情を表す以前に相手の気持ちを考えてしまう。だから、某国の核実験やらなんやらもその背景にある某国トップの気持ちを考えてしまう。きっと苦しいのだ。どうにもならないのだ。誰かに助けてもらいたくてしょうが無いのだ、と。だから、せめて振り向いてもらえるように、同じ立場に立ちたいがために犯してしまった「過ち」なのだろうと。

世界は哀しみで満ちている。それを救えるのは何なのだろうか。僕は最近そればかりを考えている。
今日、いつもの買い物をしようと思ってコンビニに立ち寄り、おにぎりとパンを選んでレジに向かった。店員さんがバーコードを読み取り、
「240円になります」
と教えてくれた。僕は予め用意していた財布を開いた。
小銭入れには7円しか入っていなかった。そこで、札入れの方を確かめてみた。

ない、ないのだ。お金がない。
7円しかない。

一瞬の混乱と恥ずかしさはあったが、すぐさま
「お金がないので、なかったことにしてもらえますか?」
という、意味不明な謝罪をして店を去った。

店を出てから、僕は嬉しさをかみしめていた。確かな喜びを感じていた。ついにあの日々が終わったのだと思った。2年前のあの日に自ら招き寄せた悪魔が、今はこういう形で僕に微笑んでくれていることに感謝した。これは決して偶然ではなく、必然なのだと思いたかった。

僕の過ごした2年とちょっと(もしくはこれまでの人生)に意味があったのかどうかは分からない。あの時にもおぼろげに見えていたものはあった。だが、僕にはまだ何かが足りていなかった。今もすべてを分かっているつもりはないし、もしかしたらまた何かが僕を襲うかもしれない。でも、今はそうなる予感すら愛しく感じる。

きっと僕の新たな物語はこの7円から始まるのだ。神の存在など信じてはいないが、もし神がいるなら僕の身に起こった出来事は神のいたずらだろう。そう信じたいし、これからは僕の意志の時間なのだという確かな感触が今はある。

天然

2009年5月27日 思うところ
普通、人は何かを手に入れるために、様々な犠牲を払って苦心するものだ。だが世の中には「天然」と呼ばれる特別な人間が存在する。テレビなどで指摘されるそれは、ある意味オバカさん的な取り扱いになっているが、僕の考えはちょっと違う。少なくとも、僕にとっての「天然」は非常な脅威であり、大いなる興味の対象である。

『それを手にするまでの過去を全く見せずに、当たり前の事のようになんらかの真理に近いことを体現する人』

が僕が思う「天然」の定義だ。

「天然」の体現することに論理的裏づけはない。ただ知っているのだ。誰もが欲しがる意味を。人が人生をかけてようやく手にするような光を。

おそらく僕が思うに、「天然」もきっと何らかの壁を乗り越えた人であるように思うのだが、僕に人物眼がないせいか、なぜかそれが全く感じられないのだ。そのことが本当に脅威だ。どれだけ人が苦労して「そのこと」を手に入れたと思っているのか、と。ふざけるのもいいかげんにしてくれ、と。

でも、だからこそ「天然」には非常な魅力がある。この人は何を知っているのだろうという期待が膨らむ。もしかしたら自分にこの世の全てを教えてくれるのではないかという、浅はかな思いまで生まれる。

そんな人に今度出会えるのはいつのことだろうと、未来に想いを馳せるのだ。


追伸

昨日書き忘れたのだけれど、恋は大いにエネルギーを消費します。おそらく普段以上に脳を酷使するからだし、「恋は盲目」の言葉どおり、なりふり構わず何かに集中することになるからです。だから、食べることと睡眠は十分に確保しないと大変なことになります。そして、恋の終わりにおとづれる虚脱感は相当なもので、なぜ自分がこんなに燃え上がっていたのだろうという疑問を感じてしまうほどです。それが失恋ならばなおさらで、敗れた恋には悪感情が大いに付きまといます。そこから人間性の崩壊や反社会的行為が生まれるといっても過言ではないくらいに。ただ、僕の思う恋は僕のものであって、他の人にはあてはまらないかもしれません。特に女性には。少なくとも僕は僕としてしか生きていないからです。

2009年5月26日 思うところ
今日の日記は僕の妄想と偏見に満ちたものなので、それでも構わないという方のみお読みください。


人は生きていれば自然と何かしらかの形で恋をする、と僕は思う。
ちなみに広辞苑(第5版)では

【恋】
①一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。

とあり
さらに【切ない】を引くと

圧迫されて苦しい。胸がしめつけられる思いでつらい

とある。

何かしらかに真剣に思い焦がれることに拡大解釈するならば、異性間以外にも恋が成立するのではないか、僕は思う。だから、ここで言う恋を、必ずしも異性に対するものに限定はしない。異性以外に対する情愛だったり、知識に対するものだったり、さらに言えば、自らの才能や可能性、過去や生命に対するものだったりするのかもしれない。とにかく、すべてを投げ打つ覚悟でそれに身を捧げるということを僕はここでは恋と呼ぶ。

僕は基本的に恋は成就しないと思っている。少なくともそうなることはかなり稀だと思う。なぜなら、恋には終わりがないからだ。対象が存在する限り、恋は燃え続ける。もしくは消えてなくなる。仮に対象が消えたとしてもそれは成就とは呼ばないだろう。そうすると恋が成就するというのは幻想に過ぎないと思う。もしかしたら、恋の次の、安らかな段階として愛が存在するかも知れないが、ここではそれは置いておく。

恋は、対象に本当に真剣にならなければ生まれない、というものでもないらしい。ふとした時に生じる時もある。ただ、そういうぽっと出の恋は、真摯に対象を見つめ続けたそれと違って、瞬間だけのものだったり、実際何に恋していたのかが曖昧なまま消えてしまったりする。だから人は、本当に小さな恋であれば、いくつもしているのだと思う。

そして恋は、対象との駆け引きであると同時に、自らの内面との戦いでもある。「女性は恋をすると美しくなる」ということを聞いたことが、それは嘘ではないと思う。恋をすると、おそらく人の内側(おそらく脳)に働きかけて、様々な作用を及ぼす。特に顕著なのが、五感への働きかけで、全ての感覚が鋭くなる。例えば、恋をするとすべてが違って見えるとよく歌われるが、そのように感じるのはまやかしではなく本当によく見えるのではないかと思う。なぜなら、恋は人間の本能だからだ。恋を本能的行動と考えれば、それが脳に働きかけて、人間の持つ潜在能力が引き出され、様々な面で能力が高まるというのはあってもおかしくないのではないか。

恋は試練でもある。一定段階燃え上がった恋は、次のステージに進み、とにかく何かを達成したいという欲に駆られることになる。その欲が何に対するものなのかは個々それぞれで、それを乗り越えられるかどうかが一番の問題となる。そしてその先に何があるのかは、それを見たものにしか分からない。

ただ言えることは、たとえ恋の試練を乗り越えたとしても、結局それは一つのハードルを越えたに過ぎず、ハードルは永遠と様々な高さ設定で並べられている。その種類も多様である。そして、ハードルを越えられず、倒してしまった人にも次のハードルはまた表れる。恋に挫折はつきものだが、次を信じれば、必ず道は開けると、僕は経験上思う。でももし、そのハードルが悪意によって置かれた物だと曲解して、恋の熱情を曲がった道に向けることがあると、人間性が損なわれる。ルールから外れると大変なことになるのだ。ハードルを越えられないならば、それを倒してでも先に進むべきだ。自分の可能性に線を引く必要は全くないし、なんとかして乗り越えようという思いさえ持ちつづければ、きっといつかは結果が、何の形であれ付いてくると思う。

とにかく跳ぼうという勇気を持つことだ。練習もせず飛べる人など稀なのだから。何回かハードルを倒した後に自分の一番欲しかったハードルを越えればいいのだ。そして、その先にある光景を見たいと、僕は今、切実に思っている。

大人

2009年5月25日 思うところ
10年を一昔とするならほぼそう言っていいと思うのだけれど、とある縁で母校の中学校から「20周年に寄せてのお祝いの文章を」と頼まれて、ふと思い浮かんだことを書いたことがある。後で出来上がりの冊子を見たら、恥ずかしいことに他の全てが「20周年おめでとうございます」的なお祝いの言葉で埋められていて、僕の文章だけ完全に浮いていた。うろ覚えだがこんな感じだ。

2年生の時、国語のある先生がこんな質問をしたのを今でも鮮明に覚えている。
「君達は大人か?子どもか?」
と。
僕達はこぞって
「大人だ」
と答えていた。

先生はにやりとするだけでだった。

20年という時を迎える今、本当の「大人だ」の意味をもう一度考えようと思う。


多分、こんなニュアンスだったと思う。今でも「大人だ」の意味は分からないが、「自分はもう大人なのかな」とは感じる。

「大人はうそつきだ。本当のことは何も教えてくれない」
と、ドラマか何かで聞いた覚えがある。ありきたりな感じの表現でなんだかおかしかったが、真理をついているなと思った。少なくとも大人は本当のことは子どもには教えてはいないと僕は思う。なぜ教えないかというと、一つには「教えられないから」で、二つには「教えても意味がないから」だろう。

僕のちっぽけな経験則だが、自分が本当に「分かった」と完了形で思えることなどあるかどうか・・・。はっきり言って自信がない。そこにあるのは「知っている」とか「覚えている」とか「経験がある」といった、実にあやふやなものであって自分は何も分かっていないのではないかと情けなく思ってしまう。でも、一生懸命に「分かろうとする」努力はしているつもりだ。人に言われたことが「本当のこと」か。自分の感じたことが「本当のこと」か。目の前の事実が「本当のこと」か。まだ「本当のこと」を分かる過程にいるのだ。それが僕にとっては、時にはたまらなく楽しい。だから僕のこんな現状を全体に拡大していいものならば、大人にとっても「本当のこと」を教えるのは無理なのだと思う。

そして、たとえ仮に教えたところで子どもが分かるのは結局、表層的なところだけであって、その本当の意味は自分で掴んでいくものだからだ。ヒントを与えられると子どもは楽をすることになる。どんな問題でも解答を与えられると「分かった」と子どもは言ってしまう。それをさせないための実に愛のあるスパルタ教育を行っているのだと思う。

とかなんとか大人を一生懸命に擁護してみたが、結局大人はいやらしい。なんだか考えていることがよく分からない。僕も小さい頃は大人が嫌いで子どものままでいたいと切実に思ったものだ。

でも、大人には可愛いところもあるのだ。なんといっても、小さい頃に大人から習った「うそつきはいけません」という教えを忠実に守っているのだから。

昨日、母を泣かせてしまった。

「あなたはもう駄目だと思っていたから」

と言っていた。

その後、僕は出かける用事があったのでシャワーを浴びた。

粘土

2009年5月23日 思うところ
この前、テレビで通信販売の番組をやっているのをボーっと見ていたのだけれど、商品を勧めている女性アナウンサーの一言がいまだにこびりついて離れない。それは
「女性ってこういう多機能なものが嬉しいんですよね~」
というアピールで、使い回されたかのようなありきたりな言葉なのだが、僕にはどうしてもしっくりこなかった。

わかるのだ。そう決めてかかるほうが、人の心理に与える効果が大きいことは。そして彼女が言わされていることも。でも、世界の全てを知っているかのような言い回しに、僕は危うさを感じてしまっただけなのだ。

「AはBだ。」と物事を固定すると、結論は実に単純明快だ。確かな事実として明らかならば、それは的確だろうと思う。しかし、何か不確かであいまいなもの、例えば人間性に関わることを一概に片付けてしまうのは、あまりにも虚しくないか。人間性に結論があるとは僕には思えない。

就職活動のとき「一分で自己PRをしてください」と言われて、絶句したことがある。準備をしなかったわけではない。自己PRと志望動機が面接における必須項目だと聞いていたから、意味があるのかどうかも分からない自己分析などをして、ある程度練っていった。でも、これは言い訳なのだけれど、実際に聞かれてみると自分の考えていった言葉が急に矮小なものに思えてしまって、音を伴うことがなかった。それを口にすれば、自分が固まってしまう気がした。それは面接どうのこうの以前にとても虚しい気がした。

何かを決めてかかることは必要なことだと思う。それは生きていく上での知恵であり、生活を楽にしてくれる。ただ、それには大きな意志が必要とされる。そこには多くの迷いが含まれるべきだと思う。簡単な道に流されて迷うこともなく手にする「常識」というものは、人を損なう。

放っておかれた粘土は歪な形で固まってしまうものだ。かと言って、固めないために水を流しつづけても、芯のないふにゃふにゃな状態のままだ。そこにも意志はない。とにかく捏ね続けることだ。自らの手で時間がかかっても。そうすればその粘土は芸術の域にまで達する確かな作品として残ると思う。

リアル

2009年5月20日 思うところ
 僕の知り合いにこういう人がいる。どう思ってか分からないが、彼は知っている人に会うと、手のひらを相手に向けてタッチするように求めてしまう。別にそれ以上は何もしない。ただ無言で手のひらを合わせるだけだ。

 その光景を初めて見た時、僕はなんとなく嫌な感じがした。なんだが変な宗教の儀式じみていて爽やかなものではないし、挨拶だとしても、相手に手を合わせろと強制している感じがしたからだ。僕の感覚は多少古風なところがあるのかもしれないが、そんなことをしているその人の神経とそれに応じる周りの人の感覚をおかしいんじゃないかとも思った。

 しかし、僕は自分がなぜその行為に嫌な感じを抱いたのかを不思議に思った。そして、彼はなぜそんなことをしているのかと考えてみた。

 これは僕の中で組み立てた推論なのだが、彼は何か「確かなもの」を求めているのではないか。ただ言葉で挨拶を交わしただけでは手に入れることの出来ない、何か「確かなもの」。それは自分が現実と結びついている実感と言ってもいいかもしれない。彼は手を合わせる感触を味わうことで、自分がここにいるということを確認しているのではないかと思った。

 そう想像すると、彼のその行為が急に切実なものに思えてきた。彼はどうにかして自分の存在を証明しようとしているのだ。そうせずにはいられない何かがあるのだと。

 そこまで考えて、僕は初めに感じた嫌な感じがなんだったのかが、なんとなく分かった。羨ましかったのだ。恥じることなく自分の欲求を満たすことのできることが。自分には出来ない方法で「確かなもの」を手にしていることが。つまりは嫉妬していたのだろうと思う。そんな自分の小ささを恥じた。

 生きるということは、なんなのか。「なぜ生まれた」とか、「なぜ生きるのか」とかいった理由を求める問いには、未だに虚ろな答えしか見出せないけれど、「何のために生きるのか」という目的に関しては、自分の中で言い聞かせていることがある。生きることを感じるために生きているのだと。リアルを感じるために生きているのだと。それは人によって違うだろうし、その感じる程度も違うというのは確かなようで、それを周りから受け取る人もいれば自ら作り出す人もいるし、プラスのものをそうだという人がいればマイナスなものをそうだと思う人もいる。その人その人のリアルがあって、それは交じり合いながらも重なることはないのだろう。目的が目的になっていると思ってしまうところが自分でも不可解なのだけれど、なんとなくそうなのかなと思う。

 このことは非常に哀しみと恐怖を含んでいるように思う。でも同時に
明るさと希望を見出せるものでもある。

 このことを見つけるために、僕は多くの時間を費やしたし、時には暗い闇に沈んだこともあった。でも、それらすべてが今では大きな財産になっている。誰もが理解していることを自分が本当に理解するというのは、僕にとっては実に難しいことなのだ。そういった回り道が良かったと思えるのは、一つのリアルがしっかりと自分の中に存在しているという紛れもない事実と、回り道はまだ続いているという期待だ。
 

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