秘め事

2012年1月11日 日々の暮らし
職場に入社して3か月目の青年サイトウ君はとても礼儀正しく、挨拶の仕方などもとても清々しい人物だ。その若さから諸先輩方には色々とお世話になっているようだが。

その彼が一回りくらい年上で直接的に仕事を教えてもらっているのがスミダさん(男性)。スミダさんにはそれこそ頭が上がらないほどにお世話になっている。


ある日の朝、サイトウ君は、スミダさんが同僚のマエダさん(女性)と車で一緒にいるのを目撃してしまったらしい。

彼は後に述懐する。
「僕は見なかったことにしたんですよ。もう社会人ですし。男女の恋路は静かに見守ろうかなと。大人のマナーとしてこのことは胸にしまっていたんです。」と。

そうと決めたものの、もやもやは晴れず、そのはけ口としてか、彼はスミダさんをつついて
「スミダさんも女遊びでもしたらどうですか?」とか大胆なことを言ってはスミダさんを困らせていたらしい。「も」とは意外に冒険家な部分もあるサイトウ君。

そしてついこの間の新年会。
初々しいサイトウ君はここでもみなさんにお世話になり、
「何か心に引っかかっていることがあったら吐き出せ」
と半ば命令されたため、
思い切って胸の扉を開いて、

「僕、見てしまったんですよ」

とあの時に見た光景を口にした。
その瞬間、盛り上がっていた酒席の時間が一瞬止まった。

「やってしまった」

と思ったサイトウ君が顔を上げると、みんなの好奇の目がスミダさんに向かっているのに気づく。

「ごめんなさい。スミダさん。」

失ってしまうものの大きさを思って絶望感に打ちひしがれ、あまりの場の凍りつきように何も言えなくなってしまったサイトウ君。

するとみんなの視線を避けるようにして、
伏し目がちなスミダさん。

ばつが悪そうにぽつりと一言



「だって嫁だし」


・・・


(爆笑)


その後、ただ一人、サイトウ君だけがポカーンとしていた。



解説すると、スミダさんとマエダさんは紛うこと無き夫婦で、マエダさんは仕事上は旧姓を名乗っているだけだった。

しかし、朝礼や納会などでマエダさんをスミダさんと呼んでいたこともたびたびあり、気づくチャンスはいくらでもあったはずなのに、サイトウ君は3か月間もそのチャンスをスルーしていたことになる。しかも、スミダさんもマエダさんも結婚指輪してるし。夫のスミダさんもサイトウ君とあれだけ一緒に仕事をしていながら、あえて夫婦と明かさなかったとはね。

個人的にはサイトウ君が知りながらもスミダさんに不純な行為を勧めるようなブラックな青年でなくて良かったと思った。

呼吸

2012年1月10日 思うところ
小・中学生の時に珠算と書道を習いに近所の教室に通っていたことがあった。

好きな時間帯に通える教室だったが、明るいうちは低学年の子が多く、遅い時間は高学年や中学生が多かった。低学年の時間帯はそれなりに騒がしかったが、時間が下るにつれて、より年上の子が集まるようになり、教室は落ち着いて、張り詰めたような真剣な空気に包まれていった。なぜ遅い時間はこんなに静かなのだろうと不思議に思う日々が続いていたのだが、ある時はっと気が付いた。

無駄な音がないのだ。珠算なら算盤を弾く音しかしないし、書道に至ってはほぼ無音の中それぞれが白紙に向かっていた。呼吸音すら聞こえない静寂に満ちた世界だった。

そのことに気付いた僕は、その静寂を自分でも体現したくなって、呼吸をできるだけ浅く、静かにするようにした。きっと何かを、呼吸でさえも人に悟られることに恥ずかしさを覚える年頃だったこともあったのだと思う。そして静寂の教室がまだ知ることのない大人の世界の入り口だと感じたのだろう。その空気に溶け込もうと、思いっきり背伸びして、誰よりもクールに落ち着きを失わない人間になろうとした。呼吸の荒さというのは、心が乱れている証だと信じて、それを恥ずべきことと思うようにした。

結果、確かに心の浮き沈みは少なくなった。自分の中では、それがクールなことだと思っていたし、そうなれたことが嬉しかった。

だが同時に大切な何かがどこかに消えてしまったような気もした。

もしかしたら呼吸のコントロールなどは特に意味はなかったのかもしれない。あえて何かを試みなくても、齢を重ねれば、誰しもが落ち着きを得るしクールになっていく。
それが良いか悪いかは別にして。

ただ一つ分かっていることは、悲しいことにもうその教室は存在しないということだ。



しばらく日記をつけることから遠ざかっていた。

それにはいくつかの理由があるけれど、一番を挙げるのならば、

「恐れていた」

からだと思う。

と表現するのにはちょっとした個人的な事情があるのだけれど、
ここに日記を綴ると、決まって僕の中では小さくはない変化が起きて、
書きたい気持ちを上回るそのあまりの衝撃に恐れを抱いて、やむを得ず冬眠状態に入ることになるのだ。

それは、自分の自堕落ともいえるし、与えられた宿命ともいえる。

ただ一つ言えることがあるとすれば、ここで自分を表現できることはいつの時も僕にとって楽しいことであったし、できることならばずっと書き続けたいと願っている。
その思いの強さが、何物にも負けじと屹立することができれば、僕はある束縛からの解放を確認することができるのではないかと思って、年も改まり、自分の立場、思いが確固としたこの時に、自分への挑戦状を叩きつけてみた。

どうせ独りよがりな徒然文になるのだろうけれど、
今ある自分を置いていければいいなと思う。

そして、できれば誰かの心に届いてくれれば幸せなことこの上ない。
最近気づいた。

世の中に面白いことなんてない。

そこにあるのは事実とそれを捉える心だけ。

同じことを目の前にして、泣いてしまう人もいれば、笑ってしまう人もいるのだから。

でも、大体のところでみんな周りの人の心に擦り寄って生きている。

それはヒトが人として実存するために編み出した知恵なのだろうけれど、
所詮、ヒトは動物。

だから涙が流れるときもあるし、笑いが広がるときもある。
悲劇を生むこともあるが、奇跡を現す時もある。

偶然ではない奇跡が当たり前になる「心」が溢れる世界を見たい。
浮き上がるような状態を過ぎ、地の底を這うような蠢きを越え、今は心の底にもやもやした何かが残ってしまっている。動くべき時なのだろうかと反芻してみても、今の状態では全てが上手く回ってくれない気がして足踏み状態だ。行進を始められる時がいつ来るのか、駆け回れる日は来るのだろうかと多少不安になってしまうが、僕の場合はきっとそういう当たり前だけどかけがえのない時が来るはずだと空に願いを込めて、ただ休息を貪っている。

日常

2009年7月12日 思うところ
何かを形にするという行為は僕にとっては非日常の範疇に入ることなのかもしれない。感性と行動力が敏感に働くのはそういう時に限られているようだからだ。日常に近づけば近づくほど何もかもがありきたりに思えてきて、新鮮な気持ちというのは薄れてしまう。日々の中に新たな発見を求めることのなんと難しいことかと思い知らされる。

視覚

2009年7月6日 思うところ
もし自分が五感のうちのどれかを欠いていたとしたらどうなのだろうと最近良く考える。特に視覚。目で見る情報というのは入って来る総体の8割以上だという話を前に耳にしたことがあるが、もし自分の視覚に欠損があったらどうなのだろうと考えてしまう。

不便なのは間違いない。歩くにも杖がなくては先が分からないし、運動には大きなハンディキャップを背負うことになる。多くをほかの感覚でなんとかしなくてはならないだろう。

でも、これは見えている者の偏見と妄想でしかないが、対人コミュニケーションに関して言えば、見えないほうが都合がいいと思ってしまうことがある。目から入ってくる情報はときに人を誤らせるような気がしてならない。確かに人間性が外観に現れるということもあると思うが、人に対する第一印象のほとんどは見た目で手に入れる情報な気がする。第一印象に囚われて人を誤解してしまうことがなんと多いことだろうかともったいなく思ってしまうことがある。音やにおい、味や触覚の方がはるかに真に迫った情報だというのに、目だけを信じて進もうとする人のなんと多いことだろうか。

だから僕は見るときはまじまじと見るようにしている。中身に迫るくらいじっくりと観察する。単に美しいとか醜いとかではなく、自分がなぜそう感じるのかをフィードバックして考えてみる。本当に心をぶつけ合えることなど実際にあるか分からないし、人間の本質がどこにあるかも分からないが、見える情報以上のものを手にしたいと思ってしまう。
答えの出ないことを延々と考え続けることに何か意味があるのだろうか。研究者でも哲学者でもないのに、はっきりとしないことを考えてしまうのは人の性なのだろうか。

どこまで物事を突き詰めるかはひとそれぞれであって、どこまででOKとするかは個々人の線引きの問題なのかもしれない。あるときに導き出した答えに一生こだわり続ける人もいれば、まったく固まった答えを持たずにふわふわしたまま生きていく人もいる。

前に「君は達観してるねぇ」などと言われたことがあるが、自分をそうだと思えたことなど一度もない。調子のいいときには何をしても道を外さず上手くいくように感じることはあるけれど、それはあくまで錯覚であって、自分は本当に小さなおどおどした人間だと感じる。

でも、「僕は今の自分のままで固まってしまいたい」と思えたことなどない、ということだけははっきりと言える。過去には多くの後悔を残しているし、未来にも大きな希望を持てていないけれど、今の自分は嫌いではない。でも、このままじゃいけないということだけは感じている。人には「そんなことを考えても無駄じゃないか」と言われようともいい。その無駄な足掻きがいつかはなにかに繋がるんじゃないかという浅はかな期待を込めて、僕は次の一歩を踏み出そうと思う。考えた上での新たな一歩を。

不幸の殻

2009年7月1日 思うところ
誰かに共感してもらいたくて自分のとある体験談を話したりしてみても、結構そういう体験というのはありふれているらしくて、大した感動を呼び起こすには至らない時がままある。自分固有のものだと思っていたものが決してそうではなく、誰もが抱えているものだったりする。

特に不幸話というのは伝わりづらいらしくて、聞く側にしてみれば、「そんなこと自分だってあるよ」といった程度にしか思えなかったりする。誰もが自分が一番不幸なのだと思いたいのだ。そうでもしなければ自分のこの辛さを一体誰が認めてくれるというのだろう。

でも上には上がいるものだ。固有の経験ではあるのだろうけれど、似たような話は溢れている。固有なものとして自分の殻に閉じこもるか、共有して外に目を向けるかは個人の自由だ。孤独と共生。どちらを選んでも虚しさは残るのかもしれない。


今日、バスで家へ向かう道すがら、幸運にも座席に座ることが出来て、音楽を聴きながらまったりとしていたのだけれど、どうも聞きなれない言葉が座席の後方から聞こえてきた。音楽の入ってくるよりも確かな音量で聞こえてきたその会話はどうやら英語らしく、さらに耳を澄ませているとお父さんと小学校低学年くらいの少年の語り合いであることがわかった。敢えて後ろを振り返ることは、その人たちにとって失礼になるのではないかと危惧した僕は、ただ音楽と英会話の二重音声を楽しんでいたのだけれど、自分より早くその親子がバスを降りる雰囲気であったので、どんな二人なのだろうとちらりと覗う機会を楽しみにしていた。

その二人の姿を見たときに、ちょっとした驚きが自分の中に生まれた。自分の想像の範囲外だったためだし、これは僕の偏見だったのかもしれないが、二人は黒人だったのだ。人種がどうこういうわけではなく、ただ僕の中では「英語だから白人だろう」という単純な思い込みがあったのだが、眼前に突きつけられた事実は僕に多少のショックを与えた。なぜ、自分は「英語=白人」と思い込んでいたのか。自分も気付かないところで人種差別をしてしまっているのか、と。

結論から言えば、ただの刷り込みなのだろうけれど、なんだか自分が小さい人間に思えてしまって、哀しかった。「もっと大きな心で世界を見なくてはならないな」とその時に思った。
当たり前の事を当たり前に受け止める。

当然のことだ。

なにしろ当たり前なのだから。

そういう当たり前が愛しくなった時が
乱れているか生きているかのどちらかなのだろう。

眠たい

2009年6月27日 思うところ
ただただ眠りたい

未来へ拓けた可能性も
今動けば変わるだろうことも
何もかもを抱え込みながら

この睡眠は
新しい変化へのプロローグであっても
自分自身の変質とは関わりがないかもしれないけれど
ただただ今は眠りたい

何もかもを無視して
自分の世界に篭っていたい

覚醒の先にある素晴らしい世界に胸を躍らせながら

誇って言うことでも、恥ずかしがって言うことでもないと思うが、僕はいわゆるコンピューターゲームが得意だ。とはいっても、数多くのゲームをしてきたわけではなく、我が家のゲーム機は初代ファミリーコンピューターと初代ゲームボーイで止まっていた。最近になって任天堂DSなるものが仲間に加わったが、その間のスーパーファミコンやらプレイステーションやらがすっぽり抜けている。中学頃から最近に至るまで、家でのコンピュータゲームは、ほとんどしてこなかったといってよいと思う。

ただ、母によく言われるのだが、初代ファミコンの画期的ゲーム「スーパーマリオブラザーズ」が我が家にやってきたとき、それを兄がやっている横で、僕は攻略本を広げて、「次はこう、ここでそう」とか言いながら攻略法を指南していたらしい。時に僕は5歳くらいだったはずなので、当然、文字がそれほど読めていたはずもないから、どうやって攻略本の内容を理解していたのかは知る由もない。

ただ、なんとなく分かってしまうということがあって、大概のゲームは攻略本など見なくても、(もちろんパーフェクトにではないが)概要を理解し、クリアすることができていた。結構、ものの全容を掴むのが早いのではないかと、無意味に胸を張ってしまう。

ただ、最近のゲームはグラフィックも美しいければ、あまりに難易度も高いらしい。実際にやったことがないので何ともいえないが、本屋さんにあふれている攻略本の数を見れば、それがなくてはクリアできないというほどのレベルまで難しさが高まっている気がする。

それにゲームを通して学べることは少ないのかもしれないが、根気強さや、全体像を素早く掴むといった能力には磨きがかかるのかも知れない。必ずしもゲームが悪だとは思わないが、それだけに嵌まって、その世界にどっぷり浸かるのはいいものか悪いものか・・・。最近の対人型ゲームはどうかしらないが、やはりゲームの中の世界と現実世界には大きな乖離があるように思ってしまう。

とはいえ、ゲームの世界は芸術的だし、魅力的でもある。うまくそれを利用できれば、人生の幅も広がるのではないか。僕は嵌まりすぎる嫌いがあるから、できるだけ避けて通るようにしているが。
確かに前に進んでいると思える時がある。

自分の目標とするものが成し遂げられた時がそうだろう。そこにたどり着くためには、多くの労力を費やすし、わずかな可能性にかけて邁進することもある。そうして得られるものの大きさを知ってか知らずか、ただまっすぐに進み、何かを手にすることで、大きな幸福感に包まれる。

ただ、人はどうだか分からないが、僕には前に進んでいるという不確かな感触を感じることがある。実際には何も進展していないし、何かを得たというわけでもないのだけれど、自分の中で何かが変わって、「あっ、前に向かってるかも」と感じられる時がある。

それは何かの予感なのかもしれない。

今、自分が動き出せば、大概の困難も乗り越えて、素晴らしい世界に巡り会えるのではないかと心だけが先走る。大概において、それは負の結果に終わることが多いのだが、今感じている不確かな感触はそうはならないといつの時も盲信してしまう。

その盲信が命取りで、僕に残されるのは夢の残骸であったり、絶望と名付けていいものだったりする。

でも、今の僕は不確かな感触を感じながらも、盲信をせず、普通に生きている。これは、僕にとって何を意味するのか。この先にあるものが何なのか、僕には確認しなくてはならない義務があるのではないかと思う。

それを知ることが出来れば、僕の時計は少しずつ時を刻んでくれることだろう。
哀しくも愛しい時間がもうすぐ終わろうとしている。今回手に出来たのは、「自分の中にあった一つの感情が確かなものだ」ということくらいだけれど、それだけでも僕にとってはかなり大きな収穫なのかもしれない。それに、はっきりと形に出来ないままだけれど、何らかの種を撒くことくらいはできたかもしれない。その芽吹きを感じれるのはいつになるかは分からないけれど。
得たものがわずかでも、何も感じられていない日々よりは、はるかに意味のある時間を過ごせたことになるのかもしれない。何よりも、過ちを犯さずにこの時間を乗り過ごせたことは僕にとっては大切なことだ。油断は禁物だが。
自分が生きている実感を持っている時に自然と生み出すものは、その時限りになってしまって、後に続かない。
何かを生み出そうと意志を持って臨むと、前に感じていたものを思い出すのが困難になってしまって、結局駄作しか生まれない。

昨日生んだものは、もう今日には新鮮さを感じられなくなり、明日には腐ってしまっている。

だけれども、何かを記録せずにはいられない時がある。どんなにその作業が明日には無意味になると分かっていても、今書きつけることには何かの意味があるはずだ。
電車に乗っていると様々な光景に出くわす。その中でも数の力に物を言って我が物顔で大騒ぎしている集団を見かけるのは結構スリリングだ。生まれてくる嫌悪と羨望の交錯した感じがたまらない。でも、よほど道を外していない限り、僕はそのスリルを楽しむことにしている。静かに過ごしたいという欲求があるならば、楽しく騒いでいたいという欲求もあるだろうから、どちらか一方に限定する必要はない気がするからだ。どのレベルまで周りの人が我慢するかという問題はあるが、「迷惑がかからない程度」ならば、良しとしてあげたい。彼らは束の間だけれど、世界の中心にいる喜びに浸っているのだから。

話はさっぱりと変わるが、僕はずっと自分が世界の中心にいると思ってきた。親に「自分が世界の中心にいると思ったら大間違いだよ」と言われ、ショックを受けたこともあったが、その後も世界の中心とはなんなのだろうかと考えていた。でも、結局、僕は「自分の世界の中心には少なくともいるだろう」とふと思ってみた。すべての世界を感じられる主体としての僕は、その感覚世界の中心にはいるだろう、と。なにしろ僕がいなくなったら僕の世界はなくなるのだから。ただ、中心にいる主体としての僕と、周りで動きを見せる世界とは無関係なことがほとんどだ。よって、実際のところ中心にいたところでなんともならないのだけれど。

でも、本当に全てが自分を中心に回っていると思ってしまうような時がある。それは幻想なのだけれど、非常な心地よさを伴っていて、今なら空も飛べるのではないかと思ってしまうような、上昇気流に乗った感覚が生まれる。僕の場合、ほとんど何も知らなかった昔にはその感覚を味わったことが何度もあって、年を取るごとに現実を見てしまうためか、そういう浮いた感覚を感じることは減ってきたように思う。

「世界は自分だけのためにあるのではないし、自分の存在意義はそんなところにあるのではない」ということを理解し始めると、「世界の中心にいる」という昂揚感よりも、もっと強固な「何か」が自分の内に築かれていくような感じが生じてくる。その「何か」は曖昧で、はっきりとした形を持たず、一時的に確信に近くなったとしてもすぐに別のものに置き換えられてしまうあやふやなものだ。

でも僕の欲しいのは、世界の中心よりも強固な「何か」であって、それをしっかりと掴むことが出来れば、何も恐れずにすむのではないかという期待さえ生まれてくる。世界の中心は数えられないほどあっても、僕の中の「何か」は僕だけのものなのだろう。それは今時になってようやく芽吹いたばかりで、大輪の花を咲かせるまでにはどれくらいの時間が必要なのかも分からない。気が遠くなるが、それが世界の中心にいる者としての使命なのではないかなと思う。それを楽しめる僕は、控えめに言っても幸せ者だ。

距離感

2009年6月19日 思うところ
触れて近づいたと思えば、実は離れている。

存在する二つの距離感。

前者を近づけられるのは生きている証。
後者を近づけられるのは人間である証。

僕が欲しいのはどちらだろう。

今必要なのは、近づくことか、離れることか。


集団でスポーツをやる前の準備運動の話なのだけれど、キャプテン的な人が必ず

「丸くなってください」

と号令をかけるのが常だ。号令の意味は分かっているけれど、

「自分はそんなに尖っていたかな?」

と自己反省してしまう。スポーツの途中で熱くなり過ぎないように、敢えてこう言っているのかもしれないとか、深読みしすぎてしまうのだ。
この前、友人とはっきりと宣言できる友人とお話していたときに、中学校のテスト勉強の話が出た。

お互いの中学は異なっていたが、テスト期間中にどれだけ勉強したかを自己申告制で「学習の記録」みたいなものに記していくといった教育方法が取られていたのは似ていたようで、その話になった。僕の中学では、テスト後にトップ10位まで学習時間の長かった人と成績の良かった人を学年通信みたいなもので称えていたのだが、そのトップ10に入っている人の学習内容、つまり効率と得点への反映が果たしてどういうものだったかというのが、その話の中心だった。

まず一致したのは、図抜けて学習時間の多い人は大抵、テストの得点が低いということと、本当に「デキル」奴は学習時間のほうのランキングには載らないということだった。

「これはどういうことなのか」と話していた。学習時間が多い人間というのは、内容が必ずしも伴っていないということではないだろうか。テレビなどと並行してのながら勉強であったり、もしくは、している気になっているだけなのではないか、という本人が聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうな結論に達した。

そして「デキル」奴と言うのは勉強していてもしていると感じていないか、敢えて少なめの時間を記録しているか、そうでなければかなり効率の良い、しなくても出来てしまう天才タイプの人間なのではないか、というところに話は落ち着いた。

つまり、結局、学習時間が多いということが、必ずしもその結果に反映しないということ、勤勉さが多くの収穫を保証しないということだったように思う。

そんな話をしながら、自分はどんなタイプなのかを考えてみた。少なくとも僕は「デキル」タイプではなかったようだ。自分の学習したと思える時間をできるだけ事実に忠実に記録していたし、成績もおかげでそこそこ良かった。しっかりとした学習時間と成績の比例直線上にいた人間だったように思う。

でも、今考えてみると、当時、僕はかなり努力していたと思う。頑張っても頑張っても上には上がいて、自分の限界ギリギリのところで戦っていた気がする。「これで負けるなら仕方ない」といった具合に。

そしてちょうどその中学校時代に踏み込んだ新しい「学習」の世界は、僕にはちょっと荷が重いようだ。いまだに勉強時間に比例した、満足する結果が得られない。きっとまだ「学習」時間が足りないから結果が出せないのだろうと自分を情けなく思う。

でも幸いなことには、この「学習」には一つの締め切りしか設定されていないということだ。それに誰かとの競争によって課されたものでもない。時間はまだまだある。締め切り前に答えが出るものでもないかもしれない。でも教科書の隅っこに書いてある内容がテストに出されるように、僕が「学習」で得た何かしらかの知識で、一つでも解答欄が埋まればいいなと、そんな風に思っている。

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