忘れもの

2013年2月5日 思うところ
最近、忘れものがひどい。


「何を食べた」とか、「何をしたか」とかいった過去志向の事から、「何をしなければならないのか」とか、「何をしたかったのか」とかいう未来志向のことに至るまで、頭の中に留めておくことも、すぐに引き出すこともできない。

忘れていたことを思い出せるならば、実際のところ大した問題ではない。思い出したならば、対応すればいいだけだ。


やっかいなのは、忘れているかどうかということに頭を悩ませなくてはならないということだ。

いくらメモを取ろうと、記録に残そうと、何かを忘れているのではないかということが頭に残って、常に若干の緊張感がまとわりついてしまう。

これが結構精神的に辛い。

いくら確認しても忘れているのではないかという思いが残ってしまい、心が休まる時がない。


そして忘れ去られた忘れものというのは、最もタチが悪い。時限爆弾のように時を刻みながら潜み続け、気づかないうちに爆発しているか、気づいたとしてももうどうしようもない。


実際のところ、忘れることへの恐怖で確認恐怖症が芽生えつつあるのを感じる。

今のところ生活に支障をきたすほどではないが、忘れないための対応策を講じるか、ハートを強靭にして忘れることへの恐怖心を取り除くかをしなくては次第に擦り切れてしまいそうで怖い。


いったい僕は、忘れものをしたかどうかに頭を悩ませ、忘れたことも忘れてしまう日々を過ごしながら、それでも生活を大切にできているのだろうか。何か大切なことを忘れてしまっても、新しいことに目を向け、何かを築いていくことの方が大切だろうか。そうやって見る未来の姿は輝いているのだろうか。

ただ、もし過去に戻る勇気と未来に進む豪気のどちらをも持てないでいるなら、それは愚かを通り越して哀しいことだろう。実際のところ、僕の忘れものは過去でも未来でもなく、今ここにあるのかもしれない。

還暦

2013年1月28日 エッセイ
今日、父が還暦を迎えた。

そして今の会社も今月末で退職するようだ。

物申したいことはたくさんあるけれど、数え切れないほどの山やら谷やらを越えて、勤め上げられたことは素直に尊敬できる。
一体、38年という、決して短くはない時間を捧げてきた「仕事」とは父にとってなんだったのだろうか。

仕事をするということの理由を問えば、数多くの答えがあるだろう。
自分のため、家族のため、社会のため、金のため、自己実現のため、名誉のため・・・。
ひとつに絞りきれるような簡単なものではない。
それでも理由には「核」があると思う。
その核に吸い付けられるように多くの目標が重なっていくのだろう。
「核」のない信念は、形の定まらない粘土のようなものだ。
形が定まらなければ生まれるものの魂は薄い。

父はどんな「核」を内に秘めていたのだろう。そしてこれからは?

父の生み出した魂を僕は引き継いでいけるのだろうか。
そして自分なりの「核」を定めて新たな熱を放っていけるだろうか。

それは世代を超えて受け継がれていくものの、最小単位なのかもしれない。

試験

2013年1月25日 日々の暮らし
明後日にとある試験が控えている。

FP技能士3級という資格試験だ。

ファイナンシャル・プランニング技能士を名乗るためには必要な試験らしいのだが、仕事に少しだけだけれど関係あるかなと感じ、上級資格への踏み台にできればと思ったのと、あとは国家資格だしFPってなんだかすごそうというミーハー気分で申し込んだ。

勉強は簿記の時と同じで全く机に向かわずゴロゴロ転がりながら参考書を読み、問題集を解いている。鉛筆すら握っていない。

すべてが二択か三択だし、実技もあるのだけれど、「実技」なんて名ばかりで実際には何かを作ったりだとか面接だとかはもとより、記述式もないからそんなに難しくない気がする。実際0から始めても1週間そこそこで受かるらしい。自分はある程度の予備知識があるので、きっと大丈夫だろう(と言い聞かせている)。

だからほんわかした勉強しかしていなくて、もしこれでファイナンシャルプランナーを名乗ってもインチキ臭いことしかできなさそうだ。きっと試験が終わったら一ヶ月で勉強したことなんて忘れてしまうんだろうな。少なくとも理解はしていない。受かるための勉強をしているだけといった感じだ。

とにかく明日も悲しいことに休みじゃないけれど、帰ってからちゃちゃっとやってしまって片付けたいなぁ。

今日もまだそこらここらに雪は溜まっている。
雪国の人から見たら「その程度で」と鼻で笑われるレベルでしかないけれど、備えも経験も少ない関東の人間にとっては一大事なのだ。
交通機関の乱れやら、滑って転んだりだとか、雪かきで筋肉痛だとかがちらほら聞こえる。

そんな中、一つ考えさせられることがあった。
帰宅途中でバスを待っていたときのことだ。

雪道を歩きたくない人は長蛇の列を作っていて、全員は乗れなさそうだった。
僕は列の真ん中くらいに並んでいたのだが、バスが到着して、列が進み始めた時に、僕の横で不穏な動きがあった。

それまでいなかったおばちゃんが並行して進んでいるのだ。
「むむっ」と思ったが、ちょっと様子を見ていると、案の定、列に入ろうとしてきた。

そこで、

「すみません、並んでるんですけど・・・」

と気弱でシャイな僕にしては、自分でも精一杯のきっぱりさで告げてみた。

するとおばちゃんはちらっとこっちを見て、まさに今気づいたかのような表情を浮かべ、去っていった。

こんな出来事だった。


個人的には、おばちゃんが割り込みたくなる気持ちもわかる。それに自分が乗れなくなるわけじゃないから、大きな問題ではない。

でも、この人が割り込むことで、律儀に並んでいた他の誰かがこのバスを乗り逃すことになるのは明らかだし、自分の目の前で割り込まれたのを黙って見過ごしたら、悪者はおばちゃんじゃなくて僕になりそうな気がした。だから一声かけた。

でも、声をかけたことで良いことをしたという気持ちにはなれなかった。
なぜか、嫌な気持ちばかりがつきまとった。

その嫌な気持ちの理由がよく分からなかった。それが本題だ。


マナーを守らないおばちゃんに対する怒りなのか、おばちゃんに声をかけたことに対する後悔なのか、悪者になりたくないという卑しい気持ちが嫌だったのか、それともそんな当たり前の正義をためらわずに振りかざせない自分に対する情けなさなのか。

それら全部がごっちゃになった正体不明の嫌な気持ちだけしか残らなかった。


結局はおばちゃんが割り込もうとしなけりゃよかったことだ。


でも本当に悪いのはなんなのだろう。


少なくとも、極力、公共マナーは守るようにしたいものだと思った。

毎年そうだけれど、僕にとって今年は特に重要な一年になるだろうし、なんとしても年の暮れには
「今年もいい一年だった♪」
と回想できるようにしたい。

去年はインフルエンザにかかったくらいで、特に大きなトラブルもなく、充実した一年だった。忙しさにかまけて、ここに書く事は少なかったけれど、書くべきことは本当はたくさんあったのかもしれない。

ただ、僕の性格的に書き始めると長くなってしまうことが多いので、今年は短くてもいいからできるだけ多く書いていきたいとは思う。

ということで、本年もよろしくお願いいたします。
今年の夏前くらいに放送していたドラマの中で
自らの社長の座を主人公に引き継いでもらうことを了承してもらった時に、その社長が言った一言がよく思い起こされる


「自分が最後じゃないっていうのはいいよな」


というのがそのセリフ。

実に広がりのある言葉で印象的だった。

自分の人生を賭けて築いてきたものがその先にも引き継がれるというのは、自分の生きた証が後の世にも残るということになるわけで、「無」を迎えた後にも「有」が息づいていてくれるという、安心感というか心強さというか気休めというかにつながるのだろう。


結局は人は認められたいのだ。


話は変わるけれども、
大学時代に友人二人と計三名様で飲んでいた時に、

「自分の名前を後の世にも残したいか?」

ということについて議論を交わしたことがあった。

答えは三人ともYES。

ただ方法論が違っていて、二人は自分の家族や知人に引き継がれていけばいいといった考え方だった一方で、もう一人は後の世の人が自分の成し得たことを知って尊敬されるような名の残し方をしたいと言っていた。

そしてそれから約10年が経ち、一人は家庭を築き、一人は大学で学問を究めんとし、一人は・・・となっている。


自分が最後にはなりたくない。誰かが心の中で自分を認めてくれていればいい。
それが血であれ、本であれ、一瞬であれ。


いつかまた3人が会った時に自らを誇らしくアピールできる、そんな格好の良い人間になっていると楽しいだろうなと思う。

下がり目

2012年7月1日 思うところ
ここのところ慌ただしさと去年からの疲れのようなものが出てきたせいか、落ち着いて物事を考えることが少なくなって、何かを記録に残すことや生み出すことに気が進まなくなってきた。

ぼーっとしてそこはかとなく浮かんだことを「ああでもない」「こうでもない」と突き詰めていくゆったりとした頭の体操をする時間がめっきりなくなっている。なんというか頭の中がグルグルしていてふらふら感があるし、ある浮かんだ思いを形にまとめて言葉に残そうにも、少しするとふっと消えてしまう。そういえば、通勤途中に音楽を聴くこともしなくなったし、思い続けている資格の勉強なども全く手を付けられていない。


特別不安定になっているわけではないと思うけれど、好調とは言い難い感じが今年に入って続いている。なんか特に変な病気でなければいいのだけれど。

とにかく仕事面では目の前のことを一つ一つ正確かつ迅速に、そして心を込めてできるように努力せねば。最近、ミス大石。
プライベートは将来のための準備をしっかりしたい。

そんな毎日が積み重なって、たどり着いたところが

「昔自分がこうなりたいと思っていたところだった」

ということになればいいなと思う。

1Q84

2012年5月25日 読書
今、一日の楽しみの一つが帰りながらの読書だ。
ずっと読みたかったのだけれど、文庫化されるまで待っていた1Q84。
やっと文庫その1を読み終えたところだけれど、昔とも今までとも違う村上春樹さんの作り出す小説世界に引き込まれている。

初期の作品は、自分が非情に調子悪かったときに読んだこともあるが、文章は平易でも描かれる事象が象徴的過ぎて理解するのは難解だった。
それ以降大体の中長編は読んできた。
時を経るごとに、村上さんの小説世界は少なくとも僕の中には消化されやすくなってきている。
今まで一番好きだったのは「ねじまき鳥~」だが、「海辺のカフカ」も読みやすかった。1Q84と似た作風と言えば「世界の終り~」なのだろうが、なぜか僕にとっては二つの世界のつながりのようなものが理解できなくて難しすぎた。

そして1Q84。
まだ物語が動き出したといったところだろうが、非常に興味深い、魅力ある作品だ。
僕が感じる今までとの違いは、物語の情景がよりイメージしやすいものになっていることと、伏線が張られているのではないかと思わせる部分が多く、先を読むのがとても楽しみになる仕掛けがされていることだ。
もちろん、比ゆ的でスタイリッシュな文章は健在だし、それぞれの登場人物が個性的で際立っているということもある。

とにかく、読み終えたときにとても大切な何かに気付かせてくれるような、そんな人生の一冊になってくれるといいなと思う。

現在は過去の積み重ねであって、未来は現在の延長線上にある。

その当たり前っぽさが危うい。


過去は現在から切り離されて断絶している。過ぎ去ったことに確からしさなど感じられない。

未来は来るものだと信じていなくともやってくるが、確実に現在の延長としてやってくるとは限らない。思いがけない不幸ややるせなさに打ちのめされるのは、「当然の権利」としての未来を盲信してしまっているからだ。


唯一確かなのは、今この時だけ。

今を真摯に生きれない者は過去も未来も哀しい。


必ずしも常に全力で生きようなどとは思わない。休息も遊びも必要だろう。

何を大切にしたいかを考えて、今を生きる。

そして現在の終点に立った時に、優しい歌で包まれたなら、幸せな人生だったと気付くのだろう。

ループ

2012年4月10日 日々の暮らし
人は永遠を希求する。

それは喜びや楽しみを永続的なものにしたいからかもしれないし、または、本能的な死に対する恐怖からのものかもしれない。プラスをさらにプラスにしたいからか、マイナスの幅を少しでも縮めたいからか、動機はどうであろうとも、今の瞬間がずっと続けばいいのにと思うことは誰しもあるとは思う。


僕も今日そんな思いを抱くときがあった。


朝、駅である人を待っていた。前に書いた一心不乱に走る少年だ。

僕は久しぶりにいつもの電車に乗って駅のベンチで休んでいるときに、ふと彼は来るだろうかと思いをはせた。

彼は学生であるから、新年度に改まったことで卒業してしまっているかもしれないし、通学時間帯が変わるかもしれない。

ただ、一言も交わしたことはないとはいえ、これからも彼の姿を確認することで、

「よし今日も頑張るか」

と思いを新たにできるといいなと思っていたし、少なくとも彼が僕の世界からいなくなってしまうことは悲しいことだった。それはきっとあり得ないことだろうけれど、できれば彼が変わらずにいつもそこに存在していてほしいとさえ思った。

しばらく駅のベンチで休んでいたが、それはすでに休憩のためではなく、彼を確認して安心感を得たい、さらに言えば、小さな永遠を手に入れたいという欲求のための時間だった。

彼の来るはずの電車がやってきて、人波が流れてきて、期待と不安が入り混じった感情が僕の中に流れた。

果たして彼はやってきた。

いつものように一心不乱に、わき目も振らず、必死に走っていた。

僕はそれを確認すると満足して、彼の後を追うようにして仕事に向かった。

このわずかなループが永遠に続けばいいのに。
相手のためを思っての行為が受け入れられず、否定だけならまだしも叱責を受ける羽目になると、さすがにガクーンとくる。

しかしよくよく考えてみれば、「相手を思っての行為」というのは、相手を喜ばしたいという自分のエゴ、つまり自己満足的な行為であって、相手を喜ばせられなかったというガクーンというよりは、自尊心を傷つけられたというガクーンの方が大きいのではないかと思った。

相手に喜んでもらうという動機が出発点ならば、否定されようが、叱責されようが、自分の思いが相手に届かなかったということを受け止め、何がいけなかったのかを反省できるはずだ。

ただのエゴだからこそ、もともと好意だったものが歪んで、嫌悪感や悪意に変わったり、復讐心までもが芽生えたりする。

もっとも、最初から自分のための行為だと思っての好意は、否定されようと叱責を受けようと、根が太いだけに揺れ動かないのかもしれない。その行為が相手のための行為だと思っているところにすでに嘘が生じているのだろう。

愛が、個を打ち捨てて自らを捧げる行為なら、僕には「愛してる」なんて言うことはできない。
仕事帰りに携帯を見たら着信があったので、折り返し電話したら
「飲みに行こう」
との暗い、切羽詰まったような友人の声。

何かあったなと思い、早く帰って束の間の休息を貪ることを諦め、電車に揺られて1時間弱、待ち合わせの飲み屋に着くと、すでに始めていた彼は時間が経っても何も語らないまま30分が過ぎる。

このまま会話のほとんどない飲み会をしていても埒が明かないので、彼の事情に思い当たることを想像して、何かの足しになればと思い、自分のちょっとじゃ終わらないちょっとした昔話のショートバージョンを話したら、言葉少なに彼は一言、

「飲み屋の女の子に別れを告げた」

とさ。

親しくなった(と言ってもお店の中で)女の子がいて、本気で結婚まで考えていたけれど、その子が勤めるお店がつぶれて、しばらくしたらメールをしても返信がこなくなったのだとか。

もっとも大半の人がこのことを聞いたら、

「お店の女性は客商売だから気を持たせようとするし、本気になったらあかんよ。スパッとあきらめるべし」

と思うだろうけれど、彼は彼女が最後の人だと思っていたらしく、落ち込みようはかなりのものだった。

僕も、「無理なものに手を出したのだから…」と思って、2、3のアドバイスと励ましの言葉をかけたけれど、彼にはおそらく届いていない。


もっともよくあることなのだけれど、他人の悩みというのは現実味の薄い、実感を伴わないものだと思う。どれほど真剣に打ち明けられたとしても、本人にとって羞恥心を含む切実なものであっても、聞く側にしてみればそれは他人事で、それほど深刻には感じられない。他人事だけに色々な助言もできる。

同じ経験(全く同じということはありえないが)をしたことがない僕の言葉は、いかに多少の共通点があることを語ったとはいえ、彼に届いただろうか。

薄っぺらな同情をするくらいなら、まだ何も語らず一緒にお酒を飲んでいればよかったのかもしれないが、結局は何かをひけらかしたい欲に負けてペラペラと話してしまったことを多少後悔した。

二人で飲み屋を後にしたが、彼はもう少し飲んでいくといって夜の街に消えた。
彼の歩いて行ったのは、やはりオネエサンのいるお店の方角だった。

痒みは痛みで消えるのだろうか。
僕には昔からある悩みが付きまとっている。

それは小学校高学年くらいに気付いたもので、気付いてしまったからには呪縛のようにその思いが離れなくなってしまっている。困るというほどではないが、ふとした寂しさや虚しさが生じてしまうことが多々あるのは確かだ。

その悩みとは一言で表現するなら

「自分が続いていないような感覚」

と言えると思う。

ある節目ごとに、環境の変化ごとに、共に過ごす人たちが変わるごとに自分が全く変質してしまっているような感覚があり、つい1年前の自分と今の自分が全くもって異なる存在であるかのように感じてしまうのだ。「自分の足跡が感じられない」と言い換えてもいいかもしれない。

主な原因は分かっている。

自分の性格に起因するのだが、時間的・環境的変化を経るたびに、自分のスタンスを変えてしまうことが第一の要因だと思う。

もともと自分をその場に合わせていくことが気楽な性質なので、その時その場によって自分を使い分けていることが大きいのだろう。それは敢えて変えているというよりは、そうするのが自分にとっての自然体になっていて、それは誰しも少なからずしていることだろうけれど、その度合いが多少強いのかもしれないと思っている。

また、人付き合いも大きくかかわっていると思う。

その時々の友人には困ったことがないのだが、学校を卒業するたびや環境が変わるたびに、その時々の友人とは繋がらなくなってしまい、ほとんどの友人とは連絡先を知っているだけの関係になってしまうのだ。じゃあ、連絡すればいいだけの話だが、なぜかそうすることに恐怖感を感じてしまって、関係性は閉ざされる一方になってしまう。共有した時間を持ち続ける人が少ないということが、寂寞な思いに結びついているのかもしれない。

そして、自分の「連続性」に決定的な打撃を与えた神様の悪戯もある。

前の自分を思い描くことができなくなって、自分を再構築しなくてはならなくなってしまうような錯覚(自分にとっては切実な問題だったが)に陥ってしまい、そうやって人格を断ち切った何者かに恨みの言葉を投げかけ続けたこともあった。


ただ、この感覚は決してマイナスな意味を持つだけのものではない。

人に合わせるのが苦にならない性格なため、人間関係で大崩れした経験は数少ないし、その時々だけの関係になってしまうといっても、良き友に囲まれて楽しい日々を過ごせた実感はある。そして、昔から繋がってくれている友もわずかだがいるし、そういう関係性を築けていることを確認するだけでも、自分の存在が連続しているのだとおぼろげながら感じられる。そして、神様の悪戯にせよ、それがなければ、結局今の自分ではありえないわけなのだから、その他の仮定を考えることはいくらでもできるけれど、今現在の自分だけでも確かなものとして実感して、日々を当たり前に過ごせることに感謝する気持ちが最近では持てるようになってきた。

恨み言を言うのももう飽きた。届くとも知れない毒を吐いて、結局その毒を自ら浴びるよりは、虚しくとも今あることを幸せだと思い、連続した自分を形作れるように明日に向かって進もうと思う。

そんな中で消え去った自分からの音信があれば、それは素晴らしい人生ではないか。


自分の孤独を嘆く人がいる。

それは、思いを寄せる人から音信がないとか、友人から連絡がないとかいうありふれたものだ。

だからありふれた孤独だと言っていいと思う。

ただ、誰にでも特殊な事情があるように、彼にも抱えているものがあって、彼自身はその孤独を生まれてからこの方、ずっと身にまとわりついている種類の孤独だと感じてしまっているらしい。

「助けてほしいときに誰もそばに寄りつかない。」
「人は過去の傷ばかりを突いてくる。」
「この孤独に耐えられない」

それは僕が思うに外的要因というよりは内的要因に属するものだ。

彼はマワリが助けてくれないと嘆き、救われることを期待するが、自分以外のマワリというのは不確定で不確実な要素が多い。自分の本当の姿でさえ分からないまま毎日を生きる人がほとんどなのに、マワリの動きまで完璧に把握するというのは無理な話だ。それに同じマワリの状況に置かれても、人によってはまったく動揺を生じないということもある

だから、心の問題のほとんどは結局は本人の内的問題だ。

ただ、先天的に心の弱い人もいるし、恵まれない過去を持っているために歪んだ心で苦しむ人もいる。生きることに強い意志を持っている人もいれば、多少の揺らぎでも絶望に陥る人もいる。

人が根本的に救われる方法は分からないが、人が変わったり、癒されたりするには3つの要素があると思う。

1、時間

2、人

3、変化

3つのどれをも手に出来ないということは原理的にあり得ないと思う。

そして過去の積み重ねというのは、人として生きた軌跡であって、その3つの蓄積だ。多くのピースをはめ込んで、より堅固な塔を築けているかどうかが人としての豊かさと強さを表しているのだと思う。

何の欠片も持たず、ただ哀しみの産声を上げて生まれた時を思ってくれれば、そしてその孤独の嘆きを拾ってくれた多くの愛のことを思ってくれれば、少しは彼の孤独も紛れてくれるのではないかと淡い期待をしている。

産声の孤独ほど切実で哀しいものはない。
人生において「何年の何月何日の何時に」「どこで」「誰と」「何をしていたか」がはっきりと言える瞬間というのは稀だ。
それを言える瞬間は、よほどの重大事が身に降りかかった時だろう。

僕の人生では今のところそんな経験は2回しかない。
その2度はどちらも多くの人が悲劇に見舞われた時であり、僕の経験は固有ではあるけれど、共有されてるものだと思う。

昨日は、その時から一年がたった日だった。
そして、同時代に生きた人たちにとって一つのアイデンティティを押し付けられた日だった。

多くの人がその瞬間に祈りをささげた。
それぞれの祈りは違えども、向かっている方向は近いのではないかと思った。

鎮魂と未来。

「生きる」ということを、これほど切実に感じることもないだろう。

与えられた不条理を受け入れるのは非常な覚悟と決意がいる。
明日へ向かうには、明るい材料が待っていることが明らかでなくてはならない。

人類がこれまで通ってきた道は、決して平坦ではなく、多くの悲劇や苦痛を伴ってきたはずだ。先人たちに出来て私たちに出来ないはずはないと信じている。

長く、険しい道になろうとも、このアイデンティティを自分の中に消化したい。

そして新たに一歩を踏み出し、いつの日かそれが連なって確かな道になることを願っている。

Mr.Children

2012年3月1日 音楽
最近、ミスチルの「東京」という曲を通勤中に聴いている。

Mr.Children「東京」
http://www.youtube.com/watch?v=VqYb6aCmFc4&feature=related

今の自分には胸が締め付けられるほどに響く曲で、いろいろな思いをこらえるのに必死になりながら聴いている。何かを掴めないまま、犠牲を払いながら日々を過ごしていることを、前向きに捉えてくれることに救われている。自分の抱く思いが孤独なものではないことにほっとしたりもする。

それでも、働けていることや、日々に目的を持っていられること、大切な人がいることなどのことは、間違いなく幸せなことだろうし、そういう当たり前だけれども奇跡的なことに感謝する気持ちを忘れないことは大切なことだろう。
仕事場が一応東京なので、それも相まって思い入れが深い曲だ。

思えばミスチルは音楽を聴き始めるきっかけになったバンドであり、それ以降、僕の人生の大事な場面はミスチルの曲で彩られている。

「名もなき歌」「simple」「youthful days」「drawing」「抱きしめたい」「口笛」
「花の匂い」「HANABI」「innocent world」「ハル」「星になれたら」・・・

思い入れのある曲はそのときどきで違うし、ふとした時に聴くことでグッとくることが多いのが、ミスチルの曲の素晴らしさかなと思う。

これからもたくさんの思いを込められる音楽に出会っていきたいなと思う。



生きている実感がある毎日のはずだった

常に前を向いて先に進んでいるはずだった

無理がきく体でいるはずだった

格好よく働いているはずだった

好きなことができるくらいのお金は持っているはずだった

豊かな趣味と充実した休みがあるはずだった

もっと有能になっているはずだった

この齢には何かを成し遂げているはずだった

虚しさや孤独とは無縁のはずだった

笑いで満ちた世界にいるはずだった

生きることに疑問なんて持たないはずだった


でも

そんな現実がなければ

あなたと出会わないはずだった


だから

悪くない人生と言っていいかな

2012年2月17日 思うところ
「インフルエンザは完治した」とかかりつけのセンセイにお墨付きをもらったのだが、咳が止まらない。熱はないし、他に苦しい症状もないのでいいのだけれど、この季節に咳をしているという事実だけで、周りの人に白い目で見られてしまっているような感覚に囚われるのが嫌だ。

当然マスクはしているのだけれど、それも申し訳程度のことだし、かといってこんなことで仕事を休むわけにもいかないし…。

これだけインフルエンザが流行っているのだから、みんな気にするんだろうなぁ。

楽しい話題を振りまきたかったけれど、どうも気持ちが小さくなってしまっているようだ。明るい話題を探してきます。
自分が馬鹿じゃないと再確認できたようでありつつも、それはそれでやはり大馬鹿なのではないかと思い、とにかく何がいけなかったのかと後悔と反省の時を過ごしている。

つまりは、風邪をひいた。

最初は37℃そこそこしかなかったので普通に仕事していたら、やはり怪しいと思われたのか、
「病院に行って来い」
と仰せつかったため、中抜けさせてもらって仕事場近くの病院で受診&検査してもらった。結果、例のアレではないと言われ、薬を一通りもらって再び仕事をしようと普通に昼ご飯食べて休憩していたら
「今日はもう帰りなさい」
と言われ、素直に帰宅した。
「まぁ、アレではないから大丈夫」
と思っていたが、夜眠っていて妙に暑かったので検温したら、

38.6℃

といかにも判断つかない微妙な数値をたたき出した。
それでも朝起きたら37℃台前半だったので、とりあえず咳が出るから仕事は休んだけれど、かかりつけも休みだし、その日(昨日)は一日自堕落な時間を過ごした。

そして今日再びかかりつけの病院に診察を受けに行ったら、なぜかまた例の鼻にグリグリする検査を受けさせられて、
「そんなにグリグリしても出ないものは出ない」
と高をくくっていた。

10分ほどしてお医者さんが嬉しそうに入ってくるから、一瞬ほっとしたのもつかの間、
「出てるねー。ほら、Bのところに線が入っているでしょ。インフルエンザだねー。」
と明るく楽しく言われたため、その口調と現実のギャップに笑えばいいのか泣けばいいのか分からなかったが、とりあえず噂のタミフルをありがたく頂戴して帰宅した。

でも帰ってきたら、38.6℃しかないし。

何よりショックなのは、週末の横浜への小旅行が取りやめになったこと。猫と4千年は父母にプレゼントしたからいいけれど、心の喪失感が大きい。かなり楽しみだったのに…。

とにかく今は体内に残るインチキエンザ菌に怒りの業火を浴びせて抹消し、早く普通の生活に戻りたい。

でも、久しぶりに丸一日休んでみると、それはそれで悪くないけれど。

猫と四千年の旅

2012年2月6日
今度の週末に横浜までお邪魔し、猫と戯れて、四千年の歴史を喰らう小旅行に行く予定です。

情報によると、横浜の猫ちゃんたちは握手をしにきてくれる時があるらしく、たまたまポジション的にも良い位置を陣取れそうなのでちょっと楽しみです。

四千年の歴史は、それなりだったら言うことないけれど、なにぶん某クーポンサイトで購入したチケットでのチャレンジなので、どうなることかわかりません。


楽しめれば、そして何かが残ればいいなと思っています。


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